わたしにどうやってかを訊いて、紙に書いた人
下の広いところのはしで、知らない子が息を入れてみせた。肩が、耳のほうまで上がった。
朝のぶんは、上から先に下りてくる子が取る。わたしは、いつもそのあとだ。もらって出てきたら、その子はまだそこにいて、わたしのほうを見ていた。
「これで、あってる?」
「あってない」
「あってないの」
「肩が上がるのは、のどのところで止まってるからだよ」
その子の背に手をあてて、吸って、と言った。手のひらの下が、外へ動いた。上のほうは、動かない。
「いま、動いた。動いたら、入ってる」
「うしろも、ふくらむの」
「ふくらむよ。前だけじゃないの。肩は、動かないほうがいいの」
その子は、また吸った。こんどは、背中のほうが動いた。肩は、はじめのところにあった。
「動いた」
「でしょ」
「これで、すぐ言っていいの」
「よくない。口をあけたら、いちど止まるの。止まってから言うと、しまいまで持つよ。すぐ言うと、はじめのぶんが先に出ちゃうから」
その子は、口をあけて、止まって、それから声を出した。声は、途中で切れなかった。はじめが太くて、しまいまで細くならない。切れるときは、うしろのほうがかすれる。かすれなかった。
「ありがとう」
「うん」
その子の手は、まだ自分の背中へ回っていた。回したままで、しばらく立っていた。
わたしは、この子を知らない。
「ねえ、だれに聞いたの。わたしのこと」
「上のへやの子」
「上のへやの子」
「名前は知らない。髪をうしろでくくってる子に聞けって、その子が言ったの」
はじめにおしえたのは、水を溜める日に、床へ器が残った子だ。つぎの子は、わたしではなくて、その子がおしえた。上のへやの子は、どっちでもない。
下の広いところは、朝のあいだだけ人が多い。立ち止まっていると、通る子が肩にあたる。あたっても、そのままだ。
知らない子は、吸ったまま行ってしまった。曲がるところで、息の音がした。
わたしも、字と数のへやのほうへ歩きだした。
とちゅうで、わたしは名前を呼ばれた。
「つむぎ、ですね」
大人だった。ゾフィー先生ではない。字と数のハンネスでもない。上着の色は、ハンネスのより濃い。顔は、見たことがあるような気もするし、ないような気もする。
背は、ゾフィー先生より高い。立っているのは廊下のまん中ではなくて、はしのほうだ。通る子は、そのうしろを通っていく。
「うん」
「さっき、下で、息の入れ方を教えていましたね」
「おしえた」
「だれに習ったのですか」
「ならってない」
「では、どうやって」
「あのね、はじめに肩を見るの。上がる子は、のどのところで止まってるから、そこじゃないよって言うの。背中にさわらせると、わかるんだよ。うしろも動くから。それでね、口をあけたら、いちど止まるの。止まってから言うと、しまいまで持つの」
その人は、紙を持っていた。何枚かある。いちばん上の一枚を左の手のひらに載せて、壁のほうへ寄った。それから、書いた。
書いているあいだは、こっちを見なかった。手は、書くさきだけ動く。ほかは、どこも動かない。ハンネスが板に書くときは、肩まで動く。
「なぜ、止まってから言うと、持つのですか」
言おうとした。
口が、はじめのところで止まった。あける前でもなくて、あけたあとでもない。その手前だ。舌のさきは、動いている。
「わかんない」
言えないのは、はじめてじゃない。まえもそうだった。それでおこられたことは、いちどもない。
その人は、また書いた。さっきより短かった。
「おなじことを、うかがえますか」
肩のところから、また言った。さっきとおなじ順で言った。言いおわると、その人は書いた。書きながら、いちど手を止めて、また書いた。
二回目のときは、書きはじめるのが早かった。わたしが肩のことを言うまえに、もう書いていた。
紙のはしまで行くと、その人は紙を裏返した。
「ねえ、なに書いてるの」
「いま、うかがったことです」
「ぜんぶ?」
「はい」
「いつからですか」
「うんと、まえ」
「うんと、まえ、というのは」
「おぼえてないくらい」
「村では、どなたかに」
「ならってない」
その人は、紙を重ねた。重ねると、いちばん上は白いほうになった。書いたところは、下になって見えない。
「また、うかがいます」
来たほうへ、戻っていった。
名前は、聞かなかった。聞くまえに行ってしまった。
廊下を通る子は、だれも立ち止まらなかった。話しているのを見た子もいるはずなのに、こっちのほうへは来なかった。
おこられるのかと思ったけど、ちがった。声は、はやくもならず、おそくもならなかった。立っているあいだに、足のうらが冷たくなった。
行ってしまってから、さっき言ったことを口のなかでたどり直した。順は合っていた。おしえるときと、おなじ順だ。
字と数のへやの前に、エルマがいた。壁によりかかって、こっちを見ている。手には、なにも持っていない。
まえにも、エルマは訊きにきた。そのときは、わたしが言っているうちに、エルマのほうは、もう聞いていなかった。
「どうやってるの」
「こう」
手のひらを上に向けて、すこし動かしてみせた。出しはしない。出すのは、奥のへやだけだ。エルマは、手のほうを見ていた。
そのあいだ、エルマは何も言わなかった。
「ふうん」
エルマは、それで行った。上着のふちが、歩くと光った。字と数のへやには入らないで、廊下の先のほうへ行って、見えなくなった。
板の線を引き直した。炭が短くなって、指のさきまで黒くなる。数のほうは、右のはしを空けておく。今日ふえたのは、右のはしではなかった。まん中に、一つ入った。紙に書くのは、板でまちがえないと分かってからだ。
奥のへやでは、器がもう置いてあった。四つ言って、手を出した。
水は、きのうと同じ高さで止まった。ゾフィー先生の目は、口のところにある。
部屋へ戻ると、ミナは紙を膝の上に置いて、書いていた。書いているあいだだけ、口が動かない。
部屋のなかは、廊下より音がすくない。戸を閉めると、下のほうで鳴っていたのが遠くなる。
「なに書いてるの」
「手紙。ううん、まだ手紙じゃないの。先に、書くことだけ出しておくの。あとで清書するときに、思い出さなくていいでしょ。思い出してるあいだに、いちばん書きたかったことが下へ行っちゃうの。分かった?」
「先に、出しておくんだ」
ミナは、わたしのほうへ紙を向けた。行のあいだが、いつもより広い。まだ、三行しかない。
「あとから足すから、あけてあるの」
「きょう、廊下で訊かれた」
「だれに」
「しらない人」
「なにを」
「息の入れ方。だれに習ったのって」
「なんて言ったの」
「ならってない、って」
「ふうん」
ミナは、書くのをやめなかった。やめないで書いているときは、口のはしが動く。
「ここね、しらない人のほうが多いよ。わたしが名前を知ってるのはね、このへやの人と、字と数でとなりになる人と、あとは声を聞いたことのある人だけなの。顔だけ知ってる人は、まだ入れてないの。だって、名前がついてないもん。分かった?」
「わたしは、入ってる?」
「入ってるよ。いちばんはじめに入ったの」
「二ばんめは」
「二ばんめはね、朝、はしの台に先に座ってる子。名前は、来て三日目に聞いたの。三ばんめは、その子のとなりの子で、四ばんめは、そのとなりの……」
「いい」
「まだあるよ」
「いい」
ミナは、書いた紙を上着のなかへしまった。しまうときだけ、両手を使う。清書は、手をあたためてからやるらしい。朝のいちばんは、字が太くなるからだ。
わたしも布をかぶって、横になった。口のなかで、はじめのところだけ動かしてみた。おなじ場所で止まった。昼も、ここだった。おなじことを、二回やってみた。二回とも、止まるのは変わらなかった。
止まったさきには、何も無い。無いのに、口はあいている。
つぎの手紙には、おしえたことを書こう。おしえたら、できるようになった子がいる。それは書ける。
ミナのうちでは、冬になるとみんなでおなじへやで寝るらしい。それも書く。紙は、まだもらっていない。もらったら、書くことを先に出しておくのを、わたしもやってみよう。
あしたのことを思った。朝のぶん。字と数。奥のへや。さいごに、もう一つ出てきた。
「また、うかがいます」




