娘を五年育てた人が、初雪の日に文乃の前に立った
この冬の初めの雪が、朝のうちに来た。粒は細かい。地面に着いたところから消えて、屋根と筵の上にだけ残っている。風は無い。落ちてくるものが、まっすぐ下りてくる。
桶は軒の内にある。昨日のうちに入れた。外へ伏せたままだったら、いまごろ底を拭いているところだ。乾いたまま使える。
いつもは水を運んでから薪を見る。今日は薪が先だ。軒の下の乾いたところを土間の奥へ寄せて、これから濡れる側の場所を空けておく。火の付きは、木の乾きでほとんど決まる。井戸の縄は、先に雪を落とす。落とさずに引くと、手のなかで水になる。かける水は、いつもと同じ二杯だ。
棒を肩へ入れた。桶の縄は、いつもより短く持つ。振れが足へ来ないようにする。上りは、靴の先を外へ開いて踏む。土は硬いままだが、濡れたところで滑る。一軒ぶんを土間へ置いて、空の桶で下りる。二度目は昼過ぎへ回した。降っているあいだは、二度に分けるあいだが長くなる。
鶏は、日の出るころに戸を開ける。今日は、開ける前に餌をやった。戸から出た三羽は、庇の外で足を上げたまま止まり、じきに軒の下へ戻ってきた。桶の水は隣の水瓶から汲んだ。あの水瓶には、俺が入れたぶんしか入っていない。
置き場の前で、ヨナスが屋根を見上げていた。肩に縄を一巻き掛けている。
「乾く前に来たな」
「藁ですか」
「黒いところが、まだ黒い。上に乗られたら、春までそのままだ」
「押さえるものを渡しておきますか」
「丸太のはしを二本でいい。石は駄目だ。乗せたところから沈む」
「昼のうちにやります」
「おれが下から支える。上がるのは、あんただ」
「そちらでも変わりませんよ」
「変わるさ。おれが上がると抜ける。二回抜けた。若い衆には言うなよ」
笑うと、冷えた息が喉に入った。
「言いません」
「そうしてくれ。二回とも、直したのはおれだ。どこが弱いかも、おれが知ってる」
ヨナスは縄を肩から外して、丸太の上へ投げた。丸太のはしを持ち上げ、目で長さを見る。下ろす音が、二度した。ヨナスは屋根を見上げた。それから、坂を下りていった。
筵は立てたままだ。
袋の面は、二度目に出した日から下がっていない。三度目の日は決まっている。それまでは上から取る。昼前に村長が来て、文乃と話して帰った。三度目に何を先に出すかは、それで決まった。長くもつものを後ろへ回す。
村長が下りたあと、丸太を二本、屋根の上へ渡した。ヨナスが下から支えて、俺が上で置き場所を決めた。渡したのは、藁を足したところの端から端までだ。まん中は踏まずに、はしのほうを伝う。押さえるだけだから縛らない。春に外すときは、乗せた順に下ろせばいい。
上から見ると、村の屋根には、雪の残る面と残らない面がある。傾きの緩いほうに残る。渡したばかりの丸太にも、もう乗りはじめていた。地面はどこも土の色で、井戸のまわりが水でいちばん黒い。
二度目のぶんを運びおえて、戸口で桶の底を拭いていた。雪は昼を回っても止まない。粒は朝より大きくなり、落ちるのが遅い。屋根から下りる音も、朝とは違う。
布を掛け替えようとして、顔を上げた。干し場のほうで、落ちてくるものが途中で切れていた。
サナだった。文乃の鉢が置いてある台の前にいる。降っているなかを、傘も何も差さずにいる。肩と髪に、雪がのっていた。
文乃が土間から出ていった。肩へ布をかけて、干し場へ回っていく。俺は戸口に立ったままでいた。ここからなら、声は届く。桶はまだ拭きかけだ。
台の鉢は四つある。文乃は朝と夕に見る。端のほうから、蓋の雪を払い、蓋を取り、中を指で押して戻す。押したあとが戻るかどうかを、そのつど見ている。二つ目の蓋に手をかけたところで、サナが言った。
「まだもつ」
鉢のことだ。中のものが何日もつかを、文乃は毎日測っている。俺は台に手を出さない。蓋を上げるのも、台の上で場所を替えるのも、文乃のほかはやらない。
「……三日目です」
文乃はそれだけ言って、蓋を取った。指を入れて、押した。
サナは台から目を離さない。
「同じものを、見ていた」
それきりだった。サナは台の前から離れて、畑のあいだの道へ入っていった。背中に降ったぶんは、払わずにいる。畑は土と株だけになっていて、その先の道は上の段の裏へ回る。回りきるところまで、こちらを向くことはなかった。
文乃は三つ目の蓋を取った。取ってから、雪を払った。払ったぶんが、そのまま中へ入った。
文乃はそれを見て、指を入れなかった。蓋を戻して、四つ目へ行った。四つ目は、押さずに戻した。
払ってから取るのが、いつもだ。押してから戻すのも、いつもだ。
文乃が土間へ戻ってきた。布を外して、竈のわきへ広げる。
「……どれも、変わってない」
「雪の日は、そうなるんだろう」
文乃は火のふちに手をかざした。少しして、広げた布のはしを直しに行った。布は、下のほうだけ色が変わっている。膝から下で受けたところだ。
雪はそのあとも降っていたが、地面に残るほどではない。夕方には、屋根の南の面から先に落ちはじめた。落ちた雪は、軒の下で筋になって、じきに消えた。
夜、明日のぶんの薪を土間へ入れた。二日ぶんある。桶は内へ入れたままにした。雪は日の落ちる前に止んで、そのあとは降っていない。屋根の上の雪も、明日の昼にはあらかた無くなる。残るのは、日の当たらない北の面だ。
「屋根に、丸太を二本渡した」
「……ヨナスさんと」
「下から支えてもらった。乗せただけだ。縛ってない」
「……春まで、そのまま」
「藁が乾いたらやり直す。今年は間に合わなかった」
「……雪が乗ったら、重いのかしら」
「二本ぶんなら、めくれない。めくれるのは、押さえの無いときだ」
「……明日、水は」
「上の段から先に運ぶ。坂は朝に見て決める。硬ければ、そのまま上がれる。鶏は、餌が先だ。戸はそのあとで開ける」
文乃は火の口の灰を、細い枝で寄せた。寄せた灰の上へ枝を置いて、手を離した。
鍋は掛けたままで、湯が少し鳴っている。土間の戸のほうから、冷えが足の高さで入ってくる。壁ぎわへ寄せた薪は、下の一段がまだ冷たい。
「……昼のこと」
「干し場か」
「……そう」
「戸口にいた。声は届いてた」
「……同じものを、って言われた」
「俺も、そう聞いた」
文乃はそれきり言わなかった。灰の上の枝が、寄せた灰に半分埋まっている。
こちらも、続けて言うことは無かった。言われたのは短い一言で、そこへ足せるものは手元に一つも無い。段取りの立てようが無い、というだけの話だ。
「……五年、あの子のそばにいた人」
俺は火の口へ細い枝を二本足した。入れたところから、先に色が変わる。
「私の目は、合っていた」
語尾は上がらなかった。前置きも無かった。文乃がこの言い方をするのは、たいてい実務の話のときだ。今日のは、そうではない。
文乃は両手を膝へ置いた。置いたまま、火のほうへ体を寄せた。
「……明日の朝、もう一度見る。三つ目に雪が入ったから」
「入ったぶんは、書いておけばいい」
「……そうする」
文乃は灰から枝を抜いた。先についた灰を火の口で落として、束のほうへ戻す。
俺は戸を引いて、下の当たるところを指で確かめた。雪の日は、ここが先に鳴る。鳴りだすと、削るところが増える。
袖のはしが、まだ湿っている。
外にいたのは、鉢を四つ見るあいだだけだ。それでこれだけ湿るのだから、サナは降りはじめからあそこにいたことになる。呼ばれたわけでもないのに、私は布を掴んで出ていった。
鉢は、置いた場所を変えない。変えたら比べられなくなる。日の当たる時間と、置いた高さだけを先に決めて、あとは触らないでおく。
外から見れば、蓋をした鉢が四つ置いてあるだけだ。何を待っているのかは、蓋の上からは分からない。村長には、どれを先に出せばいいかだけを言った。何を見て決めているのかは、言っていない。訊かれもしない。誰にも説明したことのないものを、あの言い方で名指しされたのは初めてだった。
サナが言ったのは、鉢のことではなかった。私が数えていない五年のあいだ、あの子のそばにいた人が、私と同じところを見ていたと言った。証拠は、一つも要らなかったらしい。あちらでは、それを出せないというだけで、私は黙っていた。黙っていれば、そのうち自分でも分からなくなる。分からなくなってから、ここへ来た。
五年のあいだ、同じものが見えていた人が、いた。




