きょうからわたしは奥のへやで水を出すことになった
「今日は、四つ目です」
膝の下に上着の裾を敷いて、座った。石は冷たい。そうしても、下から来る。敷いたぶんだけ、来るのが遅い。
床のまるいあとは、八つある。今日は、そのうちの一つに器が置いてあった。実技試験のときのより小さくて、ふちが内へすこし反っている。持つところは付いていない。
器の下に、水を受けるものは置いていない。こぼれたら、そのまま石にかかる。
ゾフィー先生は、ここへ来るときも器を持ってこない。器は、先に置いてある。だれが置いたのかは、見たことがない。
「きょうは、水も出すの」
「はい。あとで出します。先に、四つ目です」
ゾフィー先生は、器の横に立っている。わたしのほうへは、顔だけ向けていた。
「ブレウィ」
短い。ゾフィー先生が言いおわっても、わたしの息は半分残っていた。三つ目までのときは、しまいに残るのがもっと少ない。
「言ってみてください」
言ってみた。短いので、切るところが無い。
三つ目までは、言うと口のなかに長さが残る。四つ目は、残るまえに終わる。
「はい。四つ目は、いちばん短いです。短いものは、置くのが早くなります。早く置くと、三つ目のしまいに乗ります。乗ると、二つが一つに聞こえます」
「のる」
「乗ります。三つ目を言いおわったところで、いちど平らにします。それから、置いてください」
言い直した。三つ目のしまいを平らにして、すこし待って置いた。口のなかで、置くところがぶつからなくなった。
平らにするというのは、下げるのとはちがう。下げると、切れてしまう。同じ高さのまま、すこし置くだけだ。
「はい。いまのところです」
「これ、いみは」
「四つ目は、いつまで出すかを決めます。いま教えたのは、短く、です」
ゾフィー先生の言うことは、毎日、どこがちがうかのところだけだ。合っているところは、はい、で終わる。
言いながら思うことが、一つ増えた。しまいに来るのは、いつまで、というところだ。
「ながいのも、あるの」
「あります。今日は、いちばん短いものだけです」
「まえも、小さいのからだって言ってたよ。ちいさいところで形が入れば、大きいのにしてもおなじにできるって。それ、うちの瓶のときとおんなじだなって思ったんだよ。はじめは桶でやってたの。桶が持つようになってから、瓶にしたの。だからね、」
ゾフィー先生は、途中で止めなかった。わたしが言いおわると、すぐに次を言った。
「はい。同じです」
それから、器のところへ手を向けた。
「では、四つ、続けてください。手は、そのあとです」
器のわきへ、膝で寄った。ふちは、座ったままの膝より低い。中は乾いていて、底のまん中に丸いあとがある。前に何か置いてあったところらしい。こすっても、取れなかった。
うちの瓶なら、ふちに指をかけて待つところだ。ここの器は低くて、かけると指が中まで入ってしまう。手は、上に浮かせておくしかない。
息を先に入れた。
「アド・ウェニ。アクア・エス。ウルナ・ディミ。ブレウィ」
四つ目は、待って置いた。乗らなかった。
手を出した。
器の内がわが、下のほうから濡れた。濡れたところが上がってくる。目で追っていったら、指の一本ぶんくらいのところで、上がるのがやんだ。
細くなるところは、無かった。
手のほうは、まだ器の上にある。
「はい。よくできています。四つ目が、乗りませんでした」
水のことは、何も言われなかった。
のぞきこんだ。底の丸いあとは、もう見えない。指を入れると、わたしの爪のところまでしか濡れなかった。
指を出して、わたしは上着の裾でぬぐった。ぬれたところは、すぐに冷たくなる。
「まえは、はんぶんまで来たよ」
「はい。続けてください」
息を入れなおして、二度目を言った。同じところで、上がるのがやんだ。増えたのは、爪の白いところくらいだ。
三度目も言った。四度目も言った。言うたびに、水のあるところが高くなる。高くなりかたは、毎回おなじだけだった。多い回も、少ない回もない。
「ねえ、いまのは、どうだった。四つ目のとこ、待つのが上手になったと思うんだけど。まえは、ぶつかってたでしょ。いまはね、口のなかで場所があいてるの」
「はい。いちばん短いところが、短いままでした。そのまま、続けてください」
五度目のあとで、口のなかが乾いた。息を入れると、喉のところが鳴る。舌を上あごへ一度つけた。六度目は、そのあとで言った。また指を入れた。爪は、ぜんぶ水の下になった。まえに一度で来たところは、もっと上だった。
背中が、だんだん前へ落ちてくる。気がつくと、わたしの顔が器に近い。いちど、頭を上げた。
膝を入れ替えた。下にしていたほうの足は、靴のなかで縮んでいる。のばすと、つま先が床に着いた。
廊下のほうで、足の音がいくつか通っていった。あの音がすると、しばらくして下が静かになる。七度目を言った。八度目の四つ目が、三つ目のしまいに乗った。
はじめに座ったときより、口のほうは早くなっている。器のほうは、はじめから同じだけしか増えない。
「そこです。待って、置き直してください」
「わかった」
置き直した。乗らなかった。水は、さっきとおなじところでやんだ。
口のなかは乾いたままだ。飲むものは、この部屋には無い。
「今日は、ここまでにします」
ゾフィー先生は、器のところへしゃがんだ。片方の袖を、手首のほうへ引いた。それから、器を両手で持って、部屋を出た。
持ち上げたとき、中のは鳴らなかった。ふちの近くまで来ていないと、あの音は出ない。
立った。わたしの膝のうらがつっぱって、二歩でなおった。器のあったところは、外がわだけがまだ乾いていない。
廊下は、来たときより静かだった。膝の下に敷いていたところは、冷たいままだ。わたしの手のひらで押さえているあいだだけ温かくて、離すと、すぐ元へ行く。
部屋には、ミナが先にいた。
寝るところの布は、はしがめくれている。ミナは、寝るまえにそこを合わせる。まだ合わせていない。合わせるまでは、喋っている。
「つむぎ、手」
両方出した。
「片方でいいんだけど。……ううん、両方でいいや。ほら、まっ白でしょ。うちのほうもね、この時期になると、朝いちばんに書いた字だけ、はじめのところが太くなるの。手が動かないからなんだって。だからね、書くまえに手を布のなかへ入れておくの。すこしのあいだでいいの。分かった?」
手のひらを見た。指のつけ根のところだけ、ほかより赤い。
「すこしって、どれくらい」
「指のさきが、あったかいところまで届くくらい。うちの父さんはね、十まで数えろって言うの。でも、十だと足りない日があるの。足りないと、はじめの一字だけ、また太くなるの。そしたら、そこからまた十なの」
「りょうほうの手?」
「両方だよ。片方だけ入れると、片方だけ動くでしょ。そしたら、太い字と細い字が一枚のなかに混ざるの。混ざるのがいちばんよくないんだって」
手のひらを上着の内がわへ入れてみた。上着のほうが冷たい。
ミナは、布の下へ手を入れた。声だけが、外に出ている。
布は、ミナの手が入っているところが盛り上がっている。
「つむぎのところ、寒い? 奥のほう」
「さむい。石だから」
「こっちも石だよ。でも、人がいると変わるの。あそこ、人はすくないんでしょ」
「ふたり」
「じゃあ、寒いね。うちはね、冬になると、みんなで一つの部屋で寝るの。父さんが、そのほうが薪が減らないって言うの」
「へやが、へるの」
「部屋は減らないよ。使う部屋が減るの」
「ふえると、あったかいんだ」
「そうだよ。つむぎが来てから、こっちも前より早く書けるようになったもん」
靴のひもをほどいた。結び目のところが、日に日にかたくなる。ほどくのに、指の腹を使うようになった。
ミナのほうから、音がしなくなった。
布のなかで、手を出したかっこうにしてみた。何も出ない。ここでは出さない。
そのままでいたら、腕のつけ根のほうが重くなってきた。重くなるまでに、ずいぶんあった。昼は、腕がまだ何ともならないうちに終わっていた。
手をおろすまえに、水がとまった。




