知らない子がわたしのいきの入れかたを言っていた
上のほうから、靴の音が下りてきた。
一つじゃない。三つか四つが、段のとちゅうでいっしょになって、下でまたばらばらになる。石の段は、まんなかがへこんでいる。へこんだところを踏む子と、はしを踏む子とで、鳴りかたがちがう。
起きた。ミナは、もう寝るところに座って、靴のひもを結んでいた。
「早いね」
「音がしたから」
「あの音ね、いつもおなじ子たちなの。いちばんはじめに下りていくの。朝のところで、はしの台に座ってるでしょ。あの子たちだよ」
「知らない」
「見てないだけだよ。ね?」
「うん」
上着を着た。首のところのひもは、村で結び直してもらったところに折れ癖がついている。指でのばしても、おなじところがまた折れる。
板は、うらを上にして、寝るところのはしに置いてある。かえるまでのぶんの棒は、帰ってきた日に手のひらで消した。手のひらは黒くなって、洗ってもすぐには落ちなかった。
瓶の水は、蓋のところまで足してある。入れる人がいるはずなのに、音は、わたしのいるあいだには聞こえない。
廊下は、朝がいちばん冷たい。靴の下から来る。走ると足のうらだけあたたかくなって、止まると、また下から来る。
下へ下りて、朝のぶんをもらった。ミナは、食べるまえに紙を一枚、上着の内がわへ入れた。
「なにするの」
「あとで書くの。もらったら、先に入れておくの。台のところに置いておくと、ぬれるでしょ。桶を持って通る人がいるから」
「ぬれたこと、あるの」
「あるよ。いちどだけ。はしのところが波になって、書くと炭がにじむの。だから、それからは入れてるの」
食べおわって、外の戸のほうへ歩いた。
壁ぎわに、子が二人いた。
ひとりは、水を溜める日に、となりの器の前にいた子だ。あの日、床に残った器は、その子のとわたしのだった。もうひとりは、知らない子だ。
となりの器だった子が、両手を口の前に上げた。
「はじめに、いきをいっぱい入れるんだよ。あとから足すと、切れちゃうから」
知らない子は、口をあけて吸ってみせた。肩が上がった。
「そんなに?」
「そんなに。おなかのところが、かたくなるまで」
言いかたが、わたしのだった。声だけがちがう。
「だれに聞いたの」
「つむぎに聞いたの」
「つむぎ」
「髪をうしろでくくってる子。溜める日にいたでしょ」
知らない子は、もういちど吸った。今度は、肩が上がらなかった。
「ありがとう」
二人は、中のほうへ入っていった。歩きながら、まだ入れている。前を行く子の背が、いちど大きくなった。
戸のしたのすきまのところだけ、石の色がうすい。そこへ靴のさきを置いてから、わたしは歩きだした。
歩きながら、わたしも入れてみた。三つぶんより、すこし多く。字と数のへやまでは、持たなかった。
机は二人で一つだ。ミナが先に座って、紙をまん中に置いた。紙は、ひとり一枚だ。
板は、先に膝の上へ出す。うら返して、炭で線を一本引く。線から上が字で、下が数だ。数のほうは、右のはしを三つぶん空けておく。ずれるのは、いつも右のはしだからだ。
板に引いてから、紙に書く。板は消せる。紙は消せない。
前の板に、ハンネスが字を書いた。書くと、粉が下へ落ちる。
板の字を、わたしははしから読んでいった。きのうは、四つ目でつかえた。今日は、五つ目まで行った。つかえたのは六つ目で、上のところが二本に分かれている。塾のには、無かった形だ。
「つむぎ、いま読んでたでしょ」
「よっつめまでは、きのう。きょうは、いつつめまで行った」
「むっつめは、まだ習ってないよ。上が分かれてるのは、あとで出てくるの。ひとつずつ出てくるから、いま読めなくてもいいんだよ。分かった?」
「よんだだけ」
「よんだだけね」
ミナは、自分の紙に戻った。ミナの字は、はじめの行と終わりの行で、大きさが変わらない。
数のほうへ移った。ならべる位置が、また一つ増えている。増えたのは、右のはしだ。空けておいたところに、そのまま入った。
となりの机の子が、板を出していた。膝の上でうら返して、線を一本引き、上と下に分けた。下のほうは、右のはしを空けている。
その子の板は、わたしのより厚い。自分のを手前へ引いて、見くらべた。炭は短い。線は、まっすぐではない。その子は、書くまえにいちど板を見てから、紙に書いた。
ハンネスが、はしの列から下りてきた。手は、今日も黒い。となりの机で、いちど止まった。板のほうは見ないで、紙だけを見た。
「読める」
ハンネスは、わたしのところでは止まらなかった。列をぜんぶ見ると、板の前に立った。上の行から消していく。下の行は、しまいまで残っている。
消えた字は、もう読めない。きのうより、一つ先まで行った。
字と数が終わって、廊下を奥まで歩いた。突き当りの戸を押すと、下のはしが石にあたる。
膝をついた。上着を厚くしたぶん、布が二重になっている。それでも、石の冷たさは下から来る。
ゾフィー先生の前で、三つ、続けて言った。あいだは、あかなかった。
「はい。できています。今日は、あいだがあきませんでした」
ゾフィー先生は、立ったままだった。それから、はじめから言わせた。二度目も、おなじだった。
「明日も、この時間です」
「わかった」
立つと、膝のところの布が、石のかたちに押されていた。指でのばした。首のところのひもとちがって、こっちはすぐに戻った。
部屋に戻ると、瓶の蓋は閉まっていた。
ミナは、壁のほうを向いて座っていた。ふり返って、膝をこっちへ回した。
「ねえ、むらの水って、井戸から汲むんでしょ。前に、坂の下だって言ってたよね」
「坂の下。いまは、おとうさんが汲んでる」
「うちのほうはね、通りに桶を出しておくと、水を売る人が入れていくの。だから、汲みには行かないの。むらには、その人、来ないんでしょ」
「来ない」
「じゃあ、ぜんぶ坂を上がるんだね」
「棒の両はしに、桶をさげるの。一回で、一軒ぶん上がるんだよ」
「一回で」
「うん。前のほうを、すこし短くさげるの。そうすると、はねないの」
ミナは、指を二本立てて、片方だけ下げた。
「こう?」
「そう」
「なんで前だけ短いの。うしろじゃだめなの」
「上るとき、前が高くなるから」
ミナは、二本の指を、そのまま上へ動かした。下げたほうが、上のほうに追いついた。
「わかった。坂を上るぶんだけ、はじめから短くしておくんだね。そうしないと、前だけ先に上がっちゃうの。ね?」
「そう」
「棒は、二本あるんだよ」
「二本」
「一本は休ませるの。そのぶん、長くもつんだって」
「うちも、帳面は二つあるよ。書いてるのと、しまってあるのと。父さんが、いっぺんに二つ使うと、どっちに書いたか分からなくなるって言うの。だから、使うのはいつも一つなの。分かった?」
「わかった」
「むらのうちは、土間なんだよ。石じゃないの」
「土」
「朝、上のところだけ白くなるの」
「白くなるって、なにが」
「霜だよ。ふむと、音がするの」
「こっちでは、まだ見てないな。外に出るころには、もう消えてるのかも。父さんが、石は土より遅れて冷えるって言ってたよ」
「あさいちばんだけだよ。日が当たると、消えるの」
「じゃあ、朝に外へ出ればいいんだ。こんど、いちばんはじめに下りていく子たちについていこうかな」
「行く」
「つむぎが行くと、走るでしょ」
「走らないよ」
言ってから、けさ廊下を走ったのを思い出した。笑いが、口の中でつぶれた。
ミナは、布を手のひらで押さえた。それから、膝の上まで引いた。
「むらには、水路があるんだよ。木をくりぬいて、上のほうからつないであるの」
「水が、そこを通るの?」
「通る。いまは止まってるの。葉っぱが入ってた」
「うちのほうは、道のはしに溝があるよ。雨のとき、そこへ流れていくの。ふたはしてないから、落としたものは拾えないの。分かった?」
「うん」
ミナの話は長い。長いのは、いやじゃない。
「かえりは、五日だったよ」
「行きは、四日って言ってなかった? 一日ふえたのは、雨?」
「雨は降ってない」
「宿は、三つが行きとおなじだった」
「まえに泊まったところのほうが、いいでしょ。どこに何があるか、もう分かってるもんね」
「段の高さを知ってるから」
「段って、上のへやへ上がるところの?」
「そう。夜に下りるとき、いちばん下の一つだけ高いの」
「わたしも、うちの段は数えてるよ。数えておくと、足が先に出るでしょ。はじめてのところだと、それができないの。ね?」
「うん」
水のことは、井戸と桶のぶんだけ言った。奥のへやのことは、言わなかった。ミナは、魔法の授業へ行かない。
返事が来なくなった。ミナは、こっちを向いたまま寝ていた。
板を取って、うらを上に戻した。棒は、消したままだ。
昼の子は、両手を口の前に上げていた。おなかのところが、かたくなるまで、と言っていた。
わたしがおしえたのは、ひとりだけだ。




