鉋で落とした三行と、俺の板に残った二行
朝に一度、夕に一度。棒の両はしに桶を提げて、一軒ぶんずつ運ぶ。
娘が発ってから、十二日になる。新しいほうは、使いはじめの三日で縄が伸びた。締め直してからは、緩んでいない。古いほうは、軒の下の奥に入れたままだ。
道は乾いて硬い。まだ雪は来ていない。井戸の縄は、朝のうちだけこわばって、汲む前に水を一杯かけて戻す。汲みはじめると、縁の石に落ちたぶんが白く残る。昼までには消える。
上りでは、道のまん中のへこんだところを踏まない。踏むと桶が振れて、振れたぶんが肩へ戻る。水を移すときは、水瓶の口のところで音が変わるのを聞く。低くなったら、あと一杯で足りる。それより早く止めると、夕方までに底が見える。
割る場所のほうから、斧の音がしていた。俺が下りていくと、ヨナスが一人でやっていた。
「昨夜の風は、北からだったな」
「夜中に、南から北へ回りました」
「上のまん中の屋根は、どうだ」
「重ねたところが、ずれていません」
「おれが上げたんだから、動かんさ」
「器のことは、村長が言って回るんですか」
「あんたが回れ。上の段から先に済ませとけ。あそこは耳の遠い人が二人いる」
ヨナスは足で丸太を押さえて、刃を入れるところを払った。それから、去年より木が硬いという話をした。乾きが早かったせいだと言っている。
二軒目の土間は、俺の肩の幅だけ空いている。桶を先に入れて、それから自分が入る。棒は戸の外の壁へ立てかける。中へ持ちこむと、回すところが無い。
夕のぶんは、日の落ちる前に運ぶ。落ちてからだと、上りで足もとが見えない。灯りを提げれば、片方の手が使えなくなる。空の桶は、井戸の縁へ伏せて戻す。伏せておけば、朝に氷が張らない。
井戸のところに村長がいた。石の縁に手をついて、内側を覗いている。
「明後日だ」
「蓄えを出す日ですか」
「文乃さんのところへ寄った。長くもたんものから先に出す。日は動かさん」
「筵は、朝のうちに外します」
「頼む。器を持ってくるように言っておけ。去年、抱えて帰って落とした者がいる」
「言っておきます」
村長は縁を指で二度叩いた。上の段へ引き返した。
明後日までのことは、板に書かずにおく。覚えていて間に合う。
置き場の土台の石は、南の二つが沈んでいる。袋を下ろすときに、みな同じ側へ寄って踏むからだ。日のあるうちに、平たい石を一枚噛ませておく。
去年の出す日は、北のはずれの二軒へ行けなかった。今年はまだ道が通る。担いで上がれば、引く道具は要らない。
置き場の袋の面は、胸の下にある。はじめの出す日で下がったきり、面は動いていない。南の筵は立てたままだ。杭も縄も、秋に留めたときのままにしてある。外すのは明後日の朝になる。
昼前に坂を下りると、村長の家の前に馬が一頭つないであった。荷は積んでいない。鞍は使い込んであって、革の色が下のほうだけ濃い。
戸口の手前に、男が立っていた。肩を払い、それから袖を払っている。旅装は前に見たものと変わらない。靴だけが履き替えてある。
男は俺のほうへ二歩寄って、足を止めた。
「直さん」
「ローレンツさん」
前に来たときは、幌の車に二頭だった。今度は一頭で、車が無い。
用の重さで、出す馬の数が決まっているらしい。
「つむぎさんは、五日目の昼に学園へ入られました。道で雨には遭っておりません」
「五日でしたか」
「五日でございます。冬は、下りで馬を急がせません」
「泊まりは」
「四晩でございます。三つは行きに使ったところで、あとの一つは手前で取りました」
「荷は」
「行きと同じ数でございます。門のところで、ご自分で下ろされました」
俺は日にちを合わせた。
村長と組んだときの、遅いほうと合っている。
「リューデンまで参ります。日のあるうちに出ます」
「この時期で、何日ですか」
「二日でございます。道が凍っておりましても、二日で参ります」
村長が戸口から出てきて、馬の口のところへ立った。
「代官所は、いつまで開いてる」
「冬のあいだは、昼までにございます」
「そりゃあ、こっちが困る。着いた日に閉まっとったら、一晩よけいだ」
「早い時分にお着きになれば、その日のうちに済みます」
村長は息を鼻から抜いて、馬の首を手のひらでひとつ撫でた。
「一つ、お伝えしておきます」
「はい」
「主家に、つむぎさんのことをお訊ねになった方がございました」
村長の手が、口輪のところで止まった。
声の高さは、道の日数を言ったときと変わらなかった。
「どちらの方ですか」
「お名は、私のところまでは下りてまいりません」
「何を訊かれましたか」
「お名前と、お年と、どちらの村の子かと。三つでございます」
「主家は、答えましたか」
「答えました。枠で参った子のことは、お訊ねがあればお答えするものでございます」
「訊ねられたのは、いつごろですか」
「つい先ごろでございます。私が主家へ戻りまして、間もなくでした」
夏に来た紙のときと、向きが逆だ。あのときは、こっちが訊いて、書き足したぶんだけが来た。今度は、こっちのことが訊かれて、出ていった。
訊いた人の名は、この人のところで止まっているのではない。もっと上で止まっている。
「こちらへ、人が来ますか」
「そのようなお話は、承っておりません」
「出たときは、先に分かりますか」
「私が承れば、お知らせにまいります」
「お願いします」
条件を先に置いておけば、あとから増えたときに気がつく。増えないなら、それでいい。
ローレンツは馬の首のほうへ向き直った。
「つむぎさんの前に枠で参りましたのは四人でございます。そのうちのお二人には、同じようなお訊ねがございました。めずらしくはございません」
前にもあった話を、この人は寄って置いていった。
めずらしくないものを、わざわざ言いに来たことになる。
「お伝えすることは、以上でございます」
ローレンツは腹帯を指で押してから、鞍に手をかけた。押したのは一度だった。
馬は前足を踏み替えた。
坂の下で、馬は東へ向いた。輪の音が無いぶん、蹄の音が高く聞こえる。
村長が門のほうから戻ってきた。
「今度は、置いていくものが無かったな。紙は残る。口は残らん」
「訊く者はいると、あの人は言いました」
「訊く者はいる。こっちが訊いても、答える者はおらん。訊かれるのは、たいていこっちだがな」
桶を提げ直して、坂を上がった。
日の落ちるころ、土間で板を出した。
下のほうに、日にちが三行ある。学園を出る日。着く日の見込み。村を発つ日。どれも過ぎた。鉋の刃を少し出して、下の行から当てた。当てるたびに、木の粉が刃の上に寄る。字は二度目でほとんど消えて、三度目で白くなった。鉋屑は、土間の隅へ寄せた。明日、竈へ入れる。
上のほうの行は、そのままにした。夏に書いたきりで、炭が薄くなって、木の目のほうが濃い。板は、字を消すたびに薄くなる。指でなでると、消したところだけ木がへこんでいる。夏の行のあたりは、まだ厚い。
その下へ、書いた。名前と、年と、どこの村か。訊かれたほうを書いて、訊いた者のところは空けておいた。書いたところへ息を吹いて、粉を飛ばした。木の目に入ったぶんは残る。炭は、俺の指の長さの半分になっている。
板は軒の下へ立てかけて、上から布をかけた。夜のうちに湿ると、炭が乗らない。
土間へ戻ると、文乃が紙を写しているところだった。今年のぶんを、別の一枚へ移している。写しおえたぶんは台の手前へ置いて、去年の頁は束のあいだへ戻した。
台の奥には、蓋をした鉢が寄せてある。手前は空いている。
「村長が来たか」
「……来たわ。蓄えを出すのは、明後日だって」
「どれから配る」
「……南の壁ぎわに置いたのが、いちばん早いわ。日の当たった時間が長かったぶんだけ」
「使いの人も来た。つむぎは、五日目の昼に学園へ入ったそうだ」
文乃は写しかけの行の途中で炭を離した。
離した先の行は、まだ空いている。
「……道は」
「雨には遭っていない」
「……そう」
俺のほうは見なかった。炭を持ち直して、行のしまいまで写した。
「それから、主家に、つむぎのことを訊いた人がいたそうだ」
「……だれ」
「向こうも言わない」
「……なにを訊いたの」
「名前と、年と、どこの村かだ」
「……つむぎは、知っているの」
「知らない」
「……名前と」
文乃は、言いかけたところで口を閉じた。
台の上の一枚には、今年の日づけが端から並んでいる。
「……知らない人が、あの子のことを知っているのね」




