わたしの通る道から、知らない道が三つ出ていた
幌の中は、干した草のにおいがした。
板の上は藁で、藁の上に布がかぶせてある。顔を近づけると、草のにおいだけになる。離すと、木と、油のにおいがまざった。油は、輪の心棒に塗るものだ。
すきまから風が入ってくる。吸うと、のどの奥まで冷たい。吐くと、白くなって、うしろへ流れていった。
出たのは、まだ暗いうちだ。下の広いところには、だれもいなかった。門を抜けるまで、馬はゆっくり歩いた。
馬は二頭で、背に布をかけている。息が、鼻のところから二本出る。
「馬の息、白いね。わたしのは一本なのに」
道のわきの草は、枯れて倒れていた。朝のうちは、その上が白い。日が当たると、白いところから先に消えていく。
がくえんを出る日は、三日まえに言われた。板のうらへ棒を足すのは、その朝でやめた。
うらの棒は、わたしが朝ごとに引いたものだ。半分を過ぎて、指二本ぶんのところまで来ている。はしから当てていって、抜けているところが無いのをたしかめた。うらの下のほうは、まだ何も引いていない。
箱は、わたしの膝の前に置いてある。行きに持ってきた箱だ。蓋と中身のあいだの布も、はさんだままにしてある。板は下へ入れて、炭は布に巻いて、板の横へ寝かせた。蓋に耳をつけて、中で何か動く音がしないか聞いた。しなかった。
石を踏むたびに、箱がすこしずつ前へ出た。出たぶんだけ、幌の柱に当たる。
「箱、動いてる。石のとこで動くんだ」
押し戻すと、また出てくる。
藁を手でかき寄せて、箱と柱のあいだへ詰めた。詰めたぶん、箱はうしろへ寄った。手を離した。石を踏んでも、箱は出てこなかった。
上着の袖は、手のはしまである。手をひっこめると、指の先まで隠れた。
ローレンツは、前の側に座っている。膝の板のはしを押さえている指の場所が、揺れても変わらない。重ねてある紙は、風の来ない側に置いてあった。
「おじさん、寒くないの。手、出しっぱなしだよ」
「幌がございます」
口の中で三つ言ってみた。声は出さない。揺れていると、切れるところがずれる。息の残りかたも、部屋でやったときのようにはならなかった。
昼に止まった。外で桶の音がする。降りてもいいと言われたが、降りなかった。幌の中のほうが、風が来ない。縄を締め直す音が、うしろのほうでした。締めるのは、二回で終わった。
道は四日か五日だと聞いている。五日になるのは、雨がつづいたときだ。
日が落ちてからは、幌の中も外と変わらないくらい冷えた。足のさきを、藁の下へ入れておいた。
はじめの晩の宿は、階段に鳴る段が二つあった。上がるときと下りるときで、鳴るのは同じ段だ。次の晩の宿の階段は、どこも鳴らなかった。
二日目の昼すぎに、馬の足の音が高くなった。
幌のすきまへ指を入れて、すこし広げた。下が石になっている。歩く人がふえて、大きな袋を背負った人が、道のはしへ体を寄せてよけた。
石の道は、途中で色が変わる。新しく入れたところだけ、角がとがっていた。
道の左右に店がある。下がっている板の、字のところが先に見えた。
はじめの板は、字が二つだった。声は出さずに読んだ。
「あのね、いま読めたよ。字が二つのやつ」
次の板には、下のところに数がある。数のならべ方は、がくえんの紙と変わらない。板の数は、どれも小さい。
同じ形が、いくつもの板に出てくる。がくえんの紙にも、その形はよく出た。出てくる場所は、どれも字のはじめだ。
読めたのを右、読めなかったのを左にして、頭の中で分けた。右のほうが、先にいっぱいになった。いっぱいになると、どっちへ入れたか分からなくなる。分けるのは、やめにした。
箱の板は、出さなかった。読めるほうに線を引いていったら、わたしの板は線ばかりになる。
馬車の中は、通りにいるあいだだけ暗い。両がわの建物が高い。空は、通りの幅しかなかった。
「外、屋根がないのに暗いね」
店の前で、だれかが板を下ろしていた。下ろした板を布で拭いて、また吊るした。字は、拭いても消えない。
馬車は、通りのまん中で一度止まった。前に荷車がいて、動くまで待った。
止まっているあいだに、目の前の板を読んだ。字が四つある。はじめの二つは、名前だと思う。あとの二つは、分からない。分からないほうの形をおぼえた。まるが一つあって、その下に、線が横に一本入っている。
低いところの板は、わたしの高さからだと、字の上のほうが柱にかかる。体を起こすと、こんどは下が見えない。
「リューデン」
言ってみた。ローレンツは、紙のはしを指で押さえ直した。
荷車が動いて、馬車も動いた。石が終わると、下がやわらかくなった。
三日目は、朝から日が出なかった。
刈ったあとの畑は、土が黒い。黒いところが切れると、また木になる。木のあいだは暗くて、奥のほうまでは見えない。
上りにかかったところで、外へ出て歩いた。荷台の中より、あたたかくなる。馬より、わたしの歩くほうが速かった。
ローレンツも下りていた。紙は両手で持って、胸のところへ寄せている。
「あのね、がくえんはね、床が石なの。ぜんぶ平ら。だから、こぼしても、水が動かないんだよ。うちの土間はね、戸のほうへすこし下がってるの。水がこぼれたら、ぜんぶ戸のほうへ行くんだよ」
ローレンツは、紙を寄せ直した。
「あのね、馬って、上りだとゆっくりだね。村の坂は、もっと急なの。桶をさげてると、前のが先に地面に着いちゃうんだよ。だから、前を短くするの。そうすると、両方いっぺんに着くの」
歩いていると、うしろから馬車が来るのが分かる。石の道ではないから、音より先に、地面がすこし震えた。
「あ、あれも道だよね」
わきに、もう一本の道があった。草が両がわから寄っていて、まん中だけ土が出ている。轍は、この道のより深い。深いところに、水が残っていた。
「道でございます。南へ下ります」
「みなみ」
「南です。荷の馬が通ります。冬は、通る数が減ります」
「みなみは、なにがあるの」
「荷の出るところがございます。私は帳面で見ておりますだけで、参っておりません」
「じゃあ、行った人はいるんだね」
「おります」
それきり、前を見て歩いていた。
上りが終わって、また乗った。
昼から日の落ちるまでに、横から来る道を三つ見た。一つ目は、いま見たところ。二つ目は、わたしの村の道より広い。轍は、二本とも同じ深さになっていた。その道のはじまるところに、木が一本だけ立っている。ほかより低くて、枝が横へ出ていた。三つ目は、木のあいだへ入っていって、途中から見えなくなる。
どれも、この道から出ていた。
「ねえ、道って、いくつあるの」
二つ目の道の先にも、家があるのかもしれない。あったら、そこにいる子から見て、いまわたしのいる道が、横の一本になる。
日が落ちるのは早い。暗くなると、横の道は見えなくなった。あっても、分からない。
三晩目は、窓の下に霜が寄っていた。指でなぞると、線が残る。朝に見たら、線はまだあった。
四日目は、日が低いところへ来るころに、木がまばらになった。
道が細くなって、両がわの草が幌にさわった。
畑の段が見えた。段の上のほうに、藁の屋根がならんでいる。日は、木の高さまで下りていた。
門は、遠くからだと低い。近づくと、横木が上がってくる。門の横木は、わたしの頭の、ずっと上にある。抜けるとき、幌の上が横木をこすった。
馬車は、広いところで止まった。坂は上がれない。
「箱、わたしが持つね。ひとりで持てるよ」
踏み台が出た。手を借りずに下りた。この村で馬車から下りる子は、わたしのほかにいない。
地面は、霜で硬くなっていた。踏んでも、跡がつかない。
箱は、ローレンツが荷台のはしまで引いて、地面へ下ろした。下ろすとき、片方の手を底へ回している。
「発つ日は、直さんに紙が届いております」
「わかった」
「雨なら、日が動きます」
「あめ」
「雨でございます」
ローレンツは、馬の側へ回った。回りぎわに、車の輪を上から一度押した。
「また、こちらへ参ります」
馬車は、門の外へ出ていった。輪の音より、馬の足の音のほうが、あとまで聞こえていた。
箱は、わたしの手で持てる重さのままだ。持ち上げて、そのまま立っていた。
井戸のところまでは、坂を上がる。井戸から上は、もっと急になる。曲がるのは二回で、どちらも右だ。
上の段に、うちと、となりの家がある。煙が出ているのは、となりだった。
足のうらが、坂のかたむきを、わたしより先におぼえていた。




