わたしは毎日、なんのことばを言っているんだろう
戸が、閉まっていた。
この部屋の戸は、いつもあけたままだ。閉まっているのを見たのは、はじめてだった。
押すと、下のはしが石にあたって、途中で重くなる。あいたぶんだけ、わたしは体を入れた。うしろ手に、また押した。手をかけたところは、ざらざらしている。まわりより、色が濃い。
「今日から、閉めます。風が通りますので」
ゾフィー先生は、片方の袖を下ろした。腕が、そこで隠れた。
字と数が終わってから、わたしはここへ来る。廊下は、来たころより暗い。突き当りまで行くと、自分の足の音しか無くなる。
この前までは、戸があいていて、下の声がここまで来ていた。今日は、来ない。
この部屋で水を出したことは、一度もない。やるのは、えいしょうだけだ。
床に膝をついた。まるいあとを、また数えた。八つだ。ふえても減ってもいない。膝の下の石は、前よりあたたまるのが遅い。
「では、三つ、続けてください」
はじめに、息を多く入れた。三つぶんより、すこし多くだ。
「アド・ウェニ。アクア・エス。ウルナ・ディミ」
しまいまで行って、息がすこしあまった。
「よくできています。今日は、はじめの息が足りていました」
ゾフィー先生の目は、わたしの口から動かない。手のほうは、今日も見なかった。
「ねえ、寝るまえにもやってるよ。声は出してないの。ミナが起きちゃうから。布のなかで、息だけでやるの。そしたらね、三つ目のところで一回、間があくんだよ。いつも、おなじところであくの」
「はい。あきます。いま、そこで一度考えています。考えないで言えるようになれば、あきません」
「かんがえてる」
「考えています。身についていないところで、かならずあきます」
「ねえ、じゅもんって、これでぜんぶなの」
「先は、あります。今日は、意味を教えます」
「いみ」
「はい。あとで習うと言いました。今日からです」
ゾフィー先生は、わたしの前へ来て、膝を折った。目の高さが、同じになった。
「はじめの一つが、起こすところです。どの魔法でも、ここから入ります」
「おこす」
「起こします。二つ目が、何を出すかを決めます。あなたのは、水です」
「みず」
「三つ目が、どれだけ出すかです。いま入っているのは、器の半分ぶんです」
聞きながら、指を折った。わたしの指は、三つで止まった。
「三つ目のはじめは、すこし強く言います。ここが弱いと、どれだけ出すかが決まりきりません」
「きまらないと、どうなるの」
「出るのは、決まったものだけです。決めてから、出します」
言い直した。三つ目のはじめを強くすると、そのあとが早くなる。
「もう一度です。強くしても、長さは変えません」
もう一度言った。
「はい。それです」
「アド、って、なに」
「区切りで覚えてください。ことば一つずつには、分かれていません」
「じゃあ、ウェニは」
「同じです。二つで、一つの区切りになります」
「だれが決めたの、これ」
「昔から、そう言うことになっています。だれが決めたかは、伝わっていません」
「ゾフィー先生は、なんて言ってるか知ってるの」
「わたしも、区切りで覚えました。習ったときから、そうです」
「ふうん」
入れ物のほうが先だ、と前に言われた。入れ物は、もう入っている。入ったところへ、いま意味が置かれた。
どこが何を決めるかは、分かった。ことばのほうは、分からないままだ。
「これ、字で書ける」
「いまは、耳で覚えてください」
「もういっかい、言っていい」
「どうぞ」
「アド・ウェニ。アクア・エス。ウルナ・ディミ」
言いながら、はじめが起こすところ、つぎが水、つぎが半分、と思った。切れるところは、ずれなかった。
詠唱は三つのままだ。四つ目のところは、まだ空いたままになっている。ふえたのは、言いながら思うことのほうだった。
「ねえ、はんぶんのところを、ちがうことばにしたら、もっと出るの」
「はい。量のことばは、ほかにもあります。それも、この形が入ってからです」
「かたち」
「形です。いま入れているのが、その形です」
「じゃあ、よっつめは、いつもらえるの」
「教えていません。三つ目が身についてからです」
「ついてから」
「はい。言えるだけでは、まだです。いつでも同じところで切れるようになったら、教えます」
「どれくらいで」
「人によります」
「よっつめにも、意味あるの」
「あります。教えるときに、いっしょに言います」
「ふうん」
立ち上がった。膝のうらが、じんとしている。
「水は、まだ出さない」
「はい。溜める日のほかは、出しません」
「ここ、戸を閉めたら、あったかくなるの」
「すこしだけです」
「うちはね、火があったから、戸を閉めるとあたたかかったよ。ここ、火が無いね」
「そのぶん、厚く着てください」
「明日も、同じ時間です」
「わかった」
出るときも、戸を閉めた。うしろで、中の音が急に遠くなった。
廊下を戻った。字と数の部屋の前には、もうだれもいない。板の字は、消してあった。
階段の下まで来たところで、わたしを呼ぶ声がした。
「つむぎ」
ふり返った。
実技試験のとき、列のうしろにいた子だった。名前の紙を見上げた日にも、わたしのうしろにいた。
上着は、ふちのぶんだけ厚みがある。腕を下ろしても、そこにしわが寄らない。同じところでも、わたしのはすぐしわになる。
その子は、わたしの前まで来て、止まった。走ってきたのではないらしい。息の音がしない。
「唱えなくても出るって、ほんとう」
「出るよ」
「毎日?」
「毎日だよ。ここでは出さないけどね。うちにいたときは、朝と夕方にやってたの。あのね、きょう、意味をおしえてもらったんだよ。はじめのところが、起こすところで、そのつぎが水で、それから、」
言っているあいだに、その子はわたしの横を通っていった。
つづきは、口のなかに残った。まだ、名前を訊いていない。
話が途中で止まっても、べつに困らない。あとでミナに言えばいい。
その子の靴の音は、下まで行っても聞こえていた。うしろから見ても、ふちのところだけは、すぐ分かった。
下の広いところは、もう暗くなりかけていた。日の落ちるのが、来たころより早い。壁の紙のところに、まだ何人か立っている。読んでいるのか、待っているのかは、分からない。
部屋に戻ると、ミナが寝るところに座っていた。布のはしを首まで引き上げて、あごをのせている。
「きょう、呪文の意味をおしえてもらったよ」
「ふうん」
「みっつぶん。はじめのと、水のと、はんぶんの」
「そう」
「ミナも、なにか言うの」
「わたしは、言わないよ。魔法の授業に行かないもん。父さんも、うちは字と数で足りるって言ってたし。だから、そっちのことは分からないの」
「そっか」
もう一つ、言っていないことがあった。
「階段のところで、知らない子に訊かれたんだよ。唱えなくても出るって、ほんとうって」
「なんて答えたの」
「出るよ、って」
ミナは、こしを浮かせて、座り直した。
「どの子」
「あのね、上着のふちが、しわにならない子」
「エルマでしょ」
「エルマ」
「エルマだよ。下で名前を呼ばれてるのを聞いたの。はじめは聞きまちがいかと思ったの。でも、そのあともう一回、おなじように呼ばれてたから、それでおぼえた。おぼえた?」
「エルマ」
「うん、エルマ」
膝の上で、板をうら返した。かえるまでのぶんの棒は、うらの半分まで来ている。朝に一本ずつ足す。数えるのは朝だけにしてある。夜に足すと、次の朝に足したかどうかが分からなくなる。ミナは数えない。父さんがそう言ったからだ。それでも、こっちはやめていない。
「きょう、書き方のときにね、紙のいちばん上に、先に名前を書くって教わったの。まちがえても、その紙はもう替えられないでしょ。だから、名前だけは、いちばんはじめに、いちばんていねいに書くんだって」
「ミナのは、きれいだもんね」
「わたしはね、人の名前も先におぼえるようにしてるの。顔からおぼえると、うしろを向かれたときに分からなくなるでしょ。名前だと、呼ばれてるのが聞こえるから、あとでたしかめられるの。ね?」
「うん」
言われてみると、そうだった。
「エルマは、名前を先に呼んだよ。こっちは、まだ知らなかったのに」
ミナは、あごを上げた。
「名前はね、呼ばれてるのを聞いてたら、おぼえるの。つむぎのだって、みんなおぼえてるよ」




