わたしがもらったのは、いちばん小さいことば
床に膝をついた。石が、冷たかった。
この前までは、そうでもなかった。手のひらを当てると、当てたところだけ、あとであたたかくなる。離せば、また冷たい。
まるいあとは、八つのままだ。まんなかのところが白いのも、そのままだった。
名前を呼ばれて、廊下のいちばん奥まで歩く。ふつうの授業が終わってからで、時間は毎日おなじだ。数えると、今日で六日目になる。
「では、はじめてください」
二つ言った。息を先に入れると、しまいまで持つ。長さも、同じところで切れた。
「はい。よくできています」
ゾフィー先生が見ているのは、わたしの口のところだ。手も、床も見ない。
「きょうも、水は出さないの」
「今日も、出さなくて結構です。そのかわり、三つ目を教えます」
三つ目。
実技試験の日に、みんなが言っていたところだ。はじめの二つのあとに来て、人によって長さのちがったところ。
「ウルナ・ディミ」
ゆっくり言った。二つに切れている。前のほうが長くて、うしろが短い。ウルナ、のところは口があく。ディミ、のところは、はじめだけ強い。
「言ってみてください」
一度で言えた。
「二つ目のしまいと、三つ目のはじめのあいだを、あけないでください。あいだがあくと、三つ目が入りません」
もう一度言った。あけないようにすると、息のほうが先に細くなる。
「そうです。三つ、つなげてください」
「アド・ウェニ。アクア・エス。ウルナ・ディミ」
しまいまで行くまえに、息が足りなくなった。
「入れる息を、多くしてください。三つぶんです。二つのときと同じ息では、しまいの手前で切れます」
息を入れなおして、もういちど言った。今度は、しまいまで持った。
「結構です」
ゾフィー先生は、言うときに口を大きくしない。声も高くならない。それでも、わたしの言ったのがどこで切れたかは、毎日ぜんぶ当てる。
「ねえ、これ、みじかいよ」
ゾフィー先生の返事は、すぐだった。
「はい。はじめは、いちばん小さいものからです」
「ちいさいの」
「小さいものです。小さいところで形が入れば、大きいものにしても、同じにできます。大きいほうから入れると、崩れます」
「くずれるの」
「崩れます。ですから、順に教えます」
「わかった」
まんなかは人によってちがう、と前に言われた。長いのを言っていた子もいた。あれは、あとでもらうのかもしれない。
「では、明日からは三つです。一日に何度でも、口の中で言ってかまいません」
「三つだけ?」
「三つです」
片方の手が、ずっと袖口にあった。ゾフィー先生は、自分の机のほうへ歩いていった。
石は、わたしが膝をついていたところだけ、あたたかくなっていた。手を当てて、離した。すぐに、また冷たくなる。
廊下は、行きも帰りも、おなじだけ歩いた。
下へ下りた。子供が、もうかたまっている。そのわきを通った。声は、止まらなかった。
名前を呼ばれて、右の戸へ入った。ミナが先に座っている。机は二人で一つだ。
配られる紙は、今日も一枚だった。前の板に、書き方のところが書いてある。写すと、下へ行くほど字が大きくなる。はじめのほうに合わせようとすると、今度は間があかない。
板に字を書いた人が、机のあいだへ下りてきた。はしの列から見ていく。手が黒い。指のはらも、爪のところも黒い。袖のはしは、板の粉で白くなっていた。
わたしの紙のところで、止まった。
「読める。次」
言って、隣へ行った。
「きれいじゃないよ」
「読めれば足りる」
それだけだった。
「こっちの数は、あってる?」
その人は、数のところだけ見た。
「合ってる」
「どこが」
「ぜんぶだ」
訊き直すまえに、もう隣へ行っていた。
ミナの紙も見た。ミナの字は、行のはしまで、あいだが同じにあいている。上と下で、大きさも変わらない。
見て、そのまま行った。
「ミナの、じょうずだよ」
その人は、こっちを見なかった。前まで戻って、板の字を消しはじめた。
じょうずだとも、へただとも言わない。だめだとも言わない。
ミナは、こっちを見た。それから、自分の紙へ目を戻した。
「なんて呼べばいいの」
消す手は、止まらなかった。
「ハンネスだ」
「ハンネス先生」
「ハンネスでいい」
「ハンネス」
言ってみたら、思ったより大きい声になった。前のほうの子が二人ふり返った。ハンネスは、ふり返らなかった。
数もやった。ならべる位置が、きのうより一つ増えている。増えたのは、下から二段目だ。書きようは、塾でやったのと変わらなかった。
ミナは先に手を止めて、こっちを待っていた。
「ハンネスは、先生じゃないの」
「先生だよ。でも、そう呼ばれるのが好きじゃないんだって。まえからいる子が言ってた。名前で呼んでも、怒らないの」
「おこられた子、いるの」
「いないよ。あの人、怒らないもん。ほめもしないけどね」
ミナは、わたしの紙のはしをつまんだ。
「読めない字だと、二度見るの。二度見られた子は、書き直しなんだよ。つむぎのは、一度きりだったでしょ」
「いちど」
部屋に戻ると、瓶に水が足してあった。蓋は、閉まっている。
自分の板は、出したままだ。炭は、その上にのせてある。
布の下から、手紙を出した。折り目のところが、白くなってきている。ひろげて、もとのとおりに折った。
「まだ持ってるの。渡す人が来るまで、寝るところの下に入れておけばいいのに」
「くしゃっとなる」
「そっか」
ミナは、寝るところのはしに座って、足を上げた。
「ねえ、渡したら、いつ返ってくるの」
「渡してから、向こうに着くまでに何日かかるでしょ。ついてから、向こうが読んで、書くの。書いたのが、また戻ってくるの。行きと帰りで、二回ぶんかかるの。分かった?」
「二回ぶん」
「そう、二回ぶん。うちは遠くないから早いよ。つむぎのところは、馬車で何日だったの」
「よっかか、いつか」
「じゃあ、行くのに四日か五日でしょ。帰ってくるのにも四日か五日。あいだに、向こうが書く日が入るの。それは、分からないの」
右手を行きにした。四つ折った。五つのときは、五つだ。左手は帰りにした。こっちも、四つか五つ。
向こうが書く日を置く手が、もう無い。
両方の手を、ミナのほうへ出した。
「なにしてるの」
「あいだのが、おけない」
ミナは、わたしの手を見た。それから、板のほうを指でさした。
「書けばいいでしょ。手は、二つしかないよ。分かった?」
自分の寝るところに座った。板を膝にのせて、炭で棒を引いた。四つ引いて、間をあけて、また四つ引いた。五つのほうは、下にもう一段引いた。
いちばん少ないと、八日。いちばん多いと、十日。あいだの日は、数えられない。
かえるまでのぶんは、べつに数えてある。そっちは、朝に一つずつ増える。
「父さんがね、待つあいだは数えるなって言ってたよ。数えると、来ない日ばっかり数えることになるからって」
板を見た。棒は、消さなかった。数えているのは、わたしのほうだ。
手紙は、また布の下へ入れた。
石の床の色が、見えなくなった。ミナの声が、途中でやんだ。いつも、言いおわらないうちに寝てしまう。
ここには竈が無い。寝るまえにやることが、一つもない。
うちでは、しまいが火だった。
サナがいない晩があった。棚のいちばん奥に腕をぜんぶ入れて、指の先でさわっていたころだ。夕方までに帰ってくる日と、帰ってこない日がある。どっちになるかは、その日にならないと分からない。
その日は、暗くなっても戸が鳴らなかった。鶏を先に入れた。日の落ちるのが早い時期で、入れるのはいつもより前だった。水瓶は、朝に入れたぶんが残っていた。
一分けをよけたのは、わたしだ。上に布をかけた。自分のぶんは、座って食べた。器は、洗って伏せた。
火は、そのままにしておくと朝まで持たない。太い薪を端へ寄せて、上から灰をかけた。灰は、手ですくうと熱いところがある。木のはしでやった。
戸を閉めて、内から押した。動かなかった。布をかぶって寝た。外で音がしても、起きなかった。
朝、灰のところにサナが立っていた。
『灰が、かけてある』
サナは、そのあと何も言わなかった。棚のほうへ行って、よけてあったぶんを取った。それから、戸の外へ行った。
その日も、わたしが水を出して、鶏を出して、林のふちまで行った。
夜のうちに、一度、目があいた。外は暗い。ミナの息の音がしている。わたしのほうは、目があいたままだ。
口の中で言ってみた。声は出さない。
歩いていない。足では、切るところが分からない。息でやってみた。吸って、はじめの一つ。まだ残っているところで、二つ目。残りで、三つ目。
同じ長さになった。もう一回やった。今度も、同じところで切れた。
言えるのは、三つまでになった。




