実技試験の日にわたしは何も言わずに水を出した
前の子が、器の前で口を動かした。
声は小さい。同じ高さのところがしばらく続いて、しまいだけ上がった。歌に似ていた。切れ目は分かるのに、ことばはどれも知らない形だった。
「アド・ウェニ。アクア・エス。ウルナ・ディミ。ブレウィ。フィアト」
言いおわってから、その子は手を出した。水が出て、器の底に当たった。すこし上がったところで細くなって、止まった。
「よくできています。ただ、はじめの一つが短いです。そこが縮むと、あとがぜんぶ通りません。息を入れてから、もう一度」
「はい、ゾフィー先生」
ゾフィー先生は、袖のところを留めてから、器のわきへ寄った。
前の子は、はじめから言い直した。今度は長い。水は、さっきより上まで来た。
「それでいいです。下がってください」
器は、石の床に一つずつ置いてあった。間は二歩ぶんくらいで、まっすぐにならんでいる。ぜんぶで八つ。下がった子の器はそのままで、次の子は、隣の器の前に立つ。
名前を呼ばれたのは、ふつうの授業が終わってからだった。呼ばれた子から、廊下のいちばん奥の戸へ入っていく。実技試験、と言われた。何をするのかは、入るまでだれも言わなかった。廊下は、字と数をやった部屋の前を通りすぎて、まだ先まで続いていた。歩いていくと、壁の色が変わった。継ぎ目のところで、石の大きさもちがっていた。
部屋は、ふつうの授業のところより広い。子供の机は、一つもない。光は、床の途中までしか来ていない。窓は、高い。
うしろの壁ぎわに、机が一つだけあった。紙がひろげてあって、人が座っている。こっちを見ないで、手だけ動かしていた。
前には、二人いた。
「次の人」
はじめのところで止まって、出ていった子は戻ってやり直した。三度目で、しまいまで言えた。
「アド・ウェニ。アクア・エス。ウルナス・トレス・エト・ディミ。ロンゲ・ドゥム・プレナエ・フィウント。フィアト」
それから手を出す。水は出なかった。
「よくできています。ことばは、よく届いていました。ただ、しまいのところが早いです。前が終わりきらないうちに、しまいへ行くと、そこで切れます。もう一度」
はじめから、また言った。手を出す。今度も出ない。
「今日は、ここまでにしましょう。呪文は覚えています。あとは、言う順序と、間の取り方です」
器はからのまま、そこに置いてある。だれも片づけない。その子は、列のいちばんうしろへ行った。
「次の人」
口が動きはじめて、すぐに終わった。ことばの長さは、いちばんはじめの子のと同じくらいだ。手を出すと、水がまっすぐ落ちて、器の半分より少し上で止まった。
「よくできています。そのままで結構です」
手のひらを見ながら、その子は下がってきた。指をひらいて、閉じて、それからもう一回ひらいた。
はじめのところは、三人とも同じだった。同じ高さが続いて、しまいだけ上がる。まんなかのあたりだけ、みんな違う。長さも、人によって違った。いちばんはじめの子のは短くて、二人目のは、その倍くらいあった。
口の中で、さっきのをまねしてみた。三つ目のところで、もう分からなくなった。同じ高さのところは出せる。上がるところも出せる。あいだが、ぜんぶ抜けている。
器は、うちの水瓶よりずっと小さい。両手で持てるくらいだ。ふちが厚くて、外がわに線が一本入っている。石の床には、こぼれたあとがあった。乾きかけていて、はしのところだけ色が濃い。
となりの子に訊いた。
「ここの水、あとでどうするの」
「知らない」
「ぜんぶ入れて、そのままなのかな」
返事は、それだけだった。前を向いたまま、口だけ動かしている。声は出ていない。
列が動いた。出すのは、うちでもやっている。
「どうぞ」
器の前まで行って、膝をついた。石は、思ったより冷たくない。
手を向けた。
水が出て、底に当たった。当たる音が、すぐに水の中の音になった。それから、音がしなくなった。ふちのところまで来て、少し盛り上がっている。こぼれない。
手を下ろした。だれも、次を言わなかった。
うしろで、だれかが息を吸った。小さい声で、何か言った子がいた。すぐにやんだ。それから、紙のこすれる音がした。
「いま、詠唱しましたか」
顔を上げた。ゾフィー先生が、器のこちらがわに立っている。
「えいしょう?」
「詠唱です。手を出すまえに言っていたのが、呪文です。古いことばで、水を出すときは、こう言うと決まっています」
「言ってないよ」
「一つも?」
「うん」
ゾフィー先生は、器のふちに指をかけて、水の面を見た。それから指を離して、袖をもとに戻した。
「よくできています。水は、ちゃんと出ています。ただ、順序が違います」
「順序」
「はじめに詠唱して、それから出します。呪文が、何を、どれだけ、いつまで出すかを決めます。決めてから出します。あなたは、はじめの一つをやっていません」
「言うと、出るの」
「そうです」
「言わなくても、出たよ」
「はい。ですから、はじめから、正しくやり直しましょう」
「うちでは、だれも言ってなかったよ。おばさんも、村長さんも、水瓶のところで手を出すだけだった。水も、火も、しまっとくやつも、みんなそう。おとうさんは使えないけど、見てたから知ってる。塾でも習ってない。塾でやったのは、字と、数だけ」
聞きおわるまで、ゾフィー先生は待った。それから、さっきの子に言ったのと同じ声で言った。
「よく分かりました。ここでは、はじめからやります。一つずつです。難しくはありません。手順のとおりにやれば、だれにでもできます」
「できてるよ」
「はい。いまは出ています。ただ、そのやり方は、教えられません。ここでは、みんな同じ順でやります。そうすれば、だれにでも教えられます」
「なおすの」
「直します。はじめからです」
自分の手を見た。いつもと同じだった。
「ねえ、みんなおんなじこと言うの? まんなかのとこ、ちがってたよ。長さも、みんなちがった」
「よく見ていますね。おなじではありません。はじめと、しまいは、みんな同じです。まんなかで、どれだけ出すかと、どこまで続けるかを決めます。人によって違うのは、そこです。そこは、あとから覚えます」
「いつ」
「そのうちに。今日は、ここまでで結構です。列に戻って、待っていてください」
ゾフィー先生は、袖のところをまた留め直して、次の子のほうへ体を向けた。
列のはしまで戻って、指を四つにした。
ひとつめは、もう答えが出ている。それでも、折らないままにしてある。ふたつめは、来るときに半分だけ分かった。しまいまでは、見ていない。みっつめは、乗っているあいだに済んだ。
「よっつめ」
息だけで言った。
えいしょうって、なんだろう。
指は、四つのままだった。
次の子が呼ばれた。口が動いて、それから手が出る。水は、半分より下で止まった。
「よくできています。ただ、途中で切れました。息を入れてから、もう一度」
さっき、わたしに言ったのと同じだった。声の高さも同じだ。
うしろの机では、まだ手が動いていた。紙は、はじめに見たときより、めくれている。書くのが、はやい。おかあさんが数を書くときより、はやい。
その机のところへ、大人が一人来た。何も言わずに、紙を一枚だけ取って、出ていった。顔は上がらなかった。手も、止まらない。ゾフィー先生は、そっちを見ない。
列のうしろのほうに、まだ呼ばれていない子がいた。こっちを見ている。目が合っても、そらさなかった。その子の上着は、形はみんなと同じだ。ふちのところだけ、布がちがう。厚くて、光っている。
「次の人」
また一人、前へ出た。口が動いて、水が出て、ふちの手前で細くなる。
「よくできています。ただ、はじめの一つが長すぎます。半分で足ります」
器は、そのままならんでいた。だれかが運びだすのを、しばらく待っていた。だれも来ない。
村では、出したら、だれかが持って帰った。空の桶が、また来た。樽が満ちて、おばさんが頭に手を置いた。雨の降らない夏に、みんなが井戸のところに立っていて、そこへ出した。あれは、役に立った。ここでは、水は器に入ったままだ。役に立ったのか、そうでないのか、分からなかった。
しまいの子が終わって、みんな下がった。名前を呼ぶ声も、終わった。
書くのがはやい人だけが、まだ書いていた。




