ここの字は塾とおなじで、水はわたしの仕事じゃなかった
鐘が鳴った。
鳴ると言われていた音だった。ミナが、きのうの夜にそう言った。低いところから来て、あとのほうが天井に残る。数えたら、七つで止まった。
「起きて。下だよ」
ミナは、もう立っていた。布をたたんでいる。はしとはしを合わせて、それから半分にする。きのうと同じたたみ方だった。
「七つ鳴ったよ」
「うん、七つ」
「毎日おなじ?」
「おなじ。決めて鳴らすものなんだって。父さんが言ってた」
わたしは寝るところから下りた。石の床は、思ったほど冷たくない。裸足で二歩あるいて、それから履いた。
手本の板は、寝るところのはしに出してあった。取って、脇にはさんだ。
「それ、なに」
「板。くらべるの」
「なにと」
「ここの字と」
ミナは板を覗いて、それから戸をあけた。
「行くよ。呼ばれるまでに、下にいないとだめなの」
階段は、へこんでいるところを踏まないように、はしのほうを下りた。上りより速い。前の子の背中が、思ったより近くまで来た。一段あけた。石の音は、下りるときのほうが高い。
下の広いところには、もう子供がいた。かたまっている子と、ばらばらに立っている子がいる。声は小さい。石だから、小さくても返ってくる。大人は、はしのほうに二人いた。どっちも動かない。
壁に、紙が貼ってあった。高いところに貼ってある。行が四つ。字は、下の行ほど小さい。
「字だ」
わたしは近くまで行った。はじめの行を口の中で読んだ。読めた。二つ目も読めた。三つ目の途中に知らない形が一つあった。前と後ろは読めた。そこは飛ばした。飛ばしても分かった。
となりに、男の子が立っていた。わたしより小さい。紙の前で口だけ動いている。音は出ていない。
「よめる?」
「……ちょっと」
「読むよ」
わたしは、上の行から言った。
「鐘が鳴ったら、下へ来る」
「うん」
「へやのものを、外へ持っていかない」
「うん」
「水と掃除は、下働きの人がします」
「……うん」
「魔法を使うのは、決められたところと、決められたときだけ」
男の子は、そこでこっちを見た。
「それ、どこに書いてある」
「ここ」
指でさした。男の子は、さしたところを見てから、自分でも指を当てた。当てたまま、しばらく動かさなかった。
それから、指を行のはしまで滑らせて、また戻した。二回そうした。
前のほうで、名前を呼びはじめた。呼ばれた子から、右の戸へ入っていく。
「つむぎ」
わたしは、板をはさみ直して、行った。
長い机がならんでいる部屋だった。机は、二人で一つ。ミナが横に来て座った。
窓は、ここも高いところにある。光は机の上までは下りてこない。前のほうの子だけ、肩に当たっている。
紙が配られた。一枚ずつだ。ほんとうに紙だった。うすくて、はしを持つと、そこだけ垂れる。
「これ、書いていいの」
「書くために配るの。でも一枚だけ」
前に立っている人が、壁の板に字を書いた。塾のより大きい板で、字も大きい。書く音がしない。炭ではないらしい。
わたしは、膝の上に手本の板を置いた。
書かれた字を、板の上でさがした。上から順に指を当てていく。三つ目のところにあった。形はおなじだ。ここのは細くて、しまいが短い。ちがうのは、それだけだった。次のも、板の中にあった。その次のも、あった。
ミナが、こっちの膝を覗いた。
「なにそれ」
「塾の先生がくれたの。習った順にならんでる。上のほうから下りてきて、ここまで。ここから先は、まだ習ってないところ。ぜんぶ炭で書いてあって、こすると薄くなるの。だから、いつも上に置くんだよ」
「上に置くと、こすれないの?」
「下に入れると、押されるから」
ミナは板のはしを見て、それから自分の手を膝へ戻した。
わたしは、指をいちばん上まで戻した。
「くらべるんだって。ちがってたら、これで比べろって。同じなら、いらん、って」
「いらないの?」
「いらない」
ここの字は、塾の字だった。
答えが出た。数えはじめてから、はじめてだった。
字は、好きだ。板とおなじなら、もう読める。
板は膝にのせたままにした。うらは、なんにも書いていない。
「つむぎ、書かないの」
みんな、もう書いていた。机には、炭が一本ずつ置いてある。持つと、指の腹に色がついた。
「紙、消せないんだよね」
「消せないの。だから、書くまえにぜんぶ頭の中で作るの。書きだしてから考えると、途中で入らなくなるの。父さんが、そう言ってた」
わたしは、頭の中で作った。
作っているあいだに、はじめのほうを忘れた。作り直した。また忘れた。三回目で、毎回おなじところを忘れているのが分かった。
だから、机に指で書いた。指なら残らない。
書いてみたら、ならべ方が分かった。分かってから、紙に書いた。いっぺんで入った。はみ出さなかった。
「あ」
ミナが、わたしの机を見た。
「机、汚れるよ」
「汚れないよ。ほら」
わたしは、手のひらで机をなでた。なんにも残っていない。
「……ほんとだ」
ミナは、自分の机にも指を当てた。当てて、すぐやめた。
数もやった。数のほうは、塾でやったところの、すこし先までいった。まとめて書くやつの、そのまた先だ。書きようは同じで、ならべる位置が決まっている。
まちがえたところは、消せない。上から線を引いて、その横に書き直す。ここでは、そうするらしい。線は、まっすぐでないとだめだった。
ミナは、わたしより先に手を止めた。止めてから、こっちを待っている。
「はやいね」
「うちで、やってたから」
「どれくらい前から」
「ちいさいとき。父さんが、帳場は字より数が先だって。数がまちがってると、あとぜんぶ書き直しになるの。字は読めればいいけど、数は合ってないとだめなんだって」
わたしは、ミナの紙を横から見た。字が小さい。はじめとおしまいで、大きさが変わっていない。
わたしのは、下へ行くほど大きくなっていた。
部屋に戻ったとき、窓の外はもう赤かった。
瓶の蓋をどけた。中は、朝より減っている。手を入れたら、手首まで入らなかった。
「へってる」
手が、瓶のほうへ行った。行ってから、朝の紙を思い出した。決められたところと、決められたとき。ここは、たぶんちがう。
手を引っこめた。
廊下で、水の音がした。桶がぶつかる音もした。戸があいて、下働きの人が入ってきた。両手が桶でふさがっている。
「あけといたよ」
その人は、桶を一つ床に置いて、もう一つを瓶のふちに当てた。
わたしは、床のほうの桶へ行って、持ち手に指をかけた。
「持つよ。二つはたいへんだから。うちでも二軒ぶんやってたんだよ。坂の上まで、棒の両はしに提げて、一回で上がるの。桶だけなら、そんなに重くないよ。ここ、坂もないし」
その人は、かたむける手を止めた。
「それは、あなたの仕事ではありません」
わたしは、持ち手から指をはずした。
その人は水を入れおわると、蓋を戻した。桶のぶんは、ぜんぶは入れなかった。すこし残っている。瓶の中も、朝と同じところまでは来ていない。
二つとも提げて、出ていった。
わたしは、蓋の上に手を置いた。置いただけで、あけなかった。
「入れてもらった?」
ミナが、戸のところから入ってきた。
「うん」
「朝と夕方だから、待ってればいいの。前の日に減ってても、次の朝には足してあるの。だから、なくならないの。分かった?」
「うん」
わたしは、寝るところに座って、両手を膝の下に入れた。
ミナは布を広げて、はしとはしを合わせた。合わせてから、また広げた。今度は逆のはしからたたんでいる。
「それ、二回やるの」
「一回だと、ここが余るの」
ミナは、余ったところを指でさして見せた。わたしは見た。たしかに余っていた。
暗くなってから、わたしは訊いた。
「ねえ、魔法の授業って、いつあるの」
「まだないよ」
「きょう、無かった」
「うん。まだはじまってないから」
「いつ」
「実技試験が済んでから」
「じつぎしけん?」
「うん、実技試験。新しく来た子は、みんな受けるんだって。それが済んでから、魔法の授業がはじまるの。行く子を、そこでわけるの。分かった?」
「わける」
「わけるの。ほんとに分かった?」
「わけるんでしょ」
「うん」
ミナは、足を寝るところへ上げた。
「なにするの、実技試験で」
「知らない」
「ミナも受けるの?」
「受けるよ。みんなだもん。でも、わたしはそのあとは行かないから、字と数と書き方。それだけ」
「ふうん」
「見たことないから、ほんとうは知らないの。父さんも見てないって言ってた」
ミナは、それで横になった。壁のほうを向いて、布を肩まで引き上げた。
戸の外の音が、だんだん減っていった。
わたしは、朝の紙を思い出した。行は四つだった。四つのどこにも、実技試験、とは書いていなかった。
実技試験、というのが、あるらしい。




