娘は馬車で四日か五日。俺は二軒ぶんの水と鶏三羽
板の字を、指の腹でこすった。棒、と書いた一行が消えて、あとに炭の粉が寄った。
棒は昨日のうちに削ってある。まっすぐな枝を選んで、両はしに浅く溝を入れた。縄が滑らないようにするだけの溝だ。肩に当たるところは、皮を残して丸めた。
外で足音がした。蹄だ。一頭きりで、荷を積んでいる音ではない。
広いところまで下りると、若い男が馬から下りるところだった。旅装は薄手で、膝から下が埃をかぶっている。鞍の脇に袋が一つ提げてあるきりだ。年は二十いくつに見えた。馬の首を軽く叩いてから、こちらへ来た。
村長は畑のほうから来た。鍬を肩に載せたまま、下ろさなかった。
「アドラー家より参りました。直さんに、お返事を伺いに」
「行かせます。娘が、行くと言いました」
「承りました」
男は懐から紙を出して、その場で書き足した。書く手は速い。書きおえると畳んで、出したところへ戻した。紙は一枚きりで、ほかは持っていない。
「お迎えは、十日のちの朝でございます。馬車は、前の晩にこちらへ着きます」
「十日のちの朝ですね」
「はい。荷は、お子さんのぶんだけでけっこうです。行きの人はこちらで出します」
俺は板を出して、十日、と書いた。書いてから、下のほうに残っている行を見た。
「一つ伺います。教える人たちのことを書いたものは、いつ出ますか」
「まだ出ておりません」
「前に来られた方は、次に持ってくると言われました」
「伺っております。出ましたら、お持ちします」
詫びは無かった。言い訳も無かった。男は袋の口を締め直して、馬のほうへ半歩戻った。この場で済ませることは済んだ、という戻り方だった。
「返事は、村長にも先に伝えてあります」
「伺いました」
「決まったか」
村長が横から言った。
「十日のちの朝です」
「なら、前の日に道の草を刈らせる。あの車は幅がある。この前は、曲がりのところで枝が幌に当たってた」
「お願いします」
「文乃さんは、承知か」
「承知です」
村長は鍬を担ぎ直して、上の段のほうへ戻っていった。行きに踏んだところを、帰りも踏んでいた。
文乃には、その日のうちに言った。文乃は息を吸って、いちばん下に十日と書き足した。その一行だけ、字が小さい。
夜、板を出して、上から順に見た。訊いたことは、たいてい消してある。帰る時期。辞めて帰れるかどうか。行き帰りの人。金の出どころと、その返し方。どれも答えが返って、答えのとおりに紙へ書き足しももらった。読み返しても、日にちも数も食い違っていない。
消していないのが二つある。教える人たちのこと。それと、うまくいかない子がそのあとどうなるか。あとのほうは、文乃の紙から写した。写したときの炭が、まだいちばん黒い。
十日のちの朝、文乃が土間から箱を出してきた。俺が受け取って、小脇に抱えた。中で音がしない。持ち上げたときの重さは、麦の袋の半分もなかった。蓋と中身のあいだに布が押し込んであって、指を入れると詰まっている。
娘が隣から出てきた。戸を閉めて、外から手のひらで一度押した。開かないのを確かめてから、こっちへ来た。着るものは、いつもの日と同じだ。髪だけが、いつもより高いところで括ってある。
馬車は広いところに停めてある。前の晩に着いて、そのまま夜を越した。幅のある車だ。この坂の上までは来られない。
道に人が出ていた。畑へ行く途中の者もいるし、そのために出てきた者もいる。だれも足を止めなかった。手が上がって、それきりだった。数えたら、十一人いた。
「つむぎ。向こうにも井戸はあるからね」
井戸のほうから声がした。おばさんは洗い物の手を水から出して、前掛けで拭いていた。
「あるって」
「無かったら、こっちの井戸を思い出しな」
娘は、うん、と言って、そのまま歩いた。おばさんはもう次の桶を寄せている。
下りきったところに、子供が三人立っていた。前に馬車が来た日は車輪まで寄っていったが、今日は寄らなかった。
幌の張り方は前と同じだ。輪の外側には鉄が巻いてある。継ぎ目は二か所で、片方が爪の厚みぶん起きていた。御者に言うと、しゃがんで指で押さえ、木槌を持ってきて三度叩いた。それで平らになった。
馬は二頭とも、前に来たときより毛が短い。蹄は打ち替えたばかりで、鉄の縁が光っている。御者は轡のところを二度見て、それから腹の下をくぐって反対側も見た。
ローレンツは馬の脇に立って、御者に何か言っていた。指図をするときだけ、声が少し高くなる。俺に気づくと、声はもとに戻った。
「おはようございます。今日は四日で参ります。雨が二日続いたときだけ、五日になります」
「泊まりは」
「三晩とも取ってございます。毎年、同じ道を通っておりますので」
「途中で、村を通りますか」
「町を一つ通ります。あとは、通りません」
「昨夜は」
「村長さんのお宅に置いていただきました。お礼は申し上げてございます」
抱えてきた箱を、荷台へ入れた。
「お荷物は、これだけでございますか」
「これだけです」
「けっこうでございます。足りないものは、向こうで整えます」
ローレンツは荷台の縁に手をかけて、箱の位置を指の幅ほど動かした。動かしてから、その上には何も載せなかった。ほかの荷は、前寄りに寄せてある。
広いところから門までは、下ってすぐだ。馬車を先に出して、俺たちは歩いた。
門のところに村長がいた。刈らせるという道は、たしかに刈ってあった。刈った草は道の下手へ寄せてある。
「つむぎ。曲がりのところは、まだぬかるんでる。押すことになったら、その前に降りろ。乗ったまま押させると、車が沈む」
「わかった」
娘が俺のほうを向いた。
「水は、二軒だよ」
「板に書いてある」
「鶏は」
「小さいのから入れる」
「あずかりものは、返したからね」
「豆の鉢だな。もう棚に無い」
娘はそこで言うのをやめて、荷台のほうを見た。
文乃は紙の束を持って出てきていた。門のところで、それを開かなかった。開かないまま、娘の襟のうしろを直して、括った髪を結び直した。二度ほど手をかけて、はじめより下のところで留めた。娘がこっちを向いた。
「いってきます」
「ああ」
御者が踏み台を出した。娘は手を借りずに上がって、幌の中でしゃがんで、また立った。高さを測っているらしかった。
「たしかに、お預かりいたします」
ローレンツはそう言って、頭を下げた。下げ方は、この前と一分も違わなかった。
門の横木は、俺の背より少し高いところに渡してある。幌の上との隙間は、手のひらぶんも無かった。御者が一度見上げて、それから馬を歩かせた。
車輪が門の下を抜けた。抜けたところで音が変わった。外の道のほうが硬い。
娘は幌のふちに手をかけて、こっちを見ていた。曲がりのところで、草の向こうに入った。
輪の音は、そのあともしばらく聞こえていた。聞こえなくなってから、村長が門の木を手のひらで一度叩いて、上の段へ戻っていった。
坂を上がって、井戸へ行った。棒の両はしに桶を提げると、肩の下で釣り合う。前に出るほうを少しだけ短く提げると、上りで水が跳ねない。上の段まで一回で上がった。前は二回だ。一軒ぶんを置いて、空の桶を提げて井戸へ戻った。
汲み直して、隣の戸を開けた。焚き口の前に、細い枝がそろえて置いてある。長さもそろえてある。そのままにして、提げてきたぶんを水瓶へ移した。移すあいだ、音は途中から低くなった。
蓋の縁を布で拭いてから、載せた。娘は蓋をいつも同じ向きで置く。合わせのところに欠けが一つあって、その欠けが戸のほうを向く置き方だ。同じ向きにして戻した。灰は、朝のうちに二軒ぶんを運び出してある。運ぶ先は去年から決まっている。
日が落ちるころに、鶏を入れた。いちばん小さいのを先に入れた。あとの二羽は、追わなくても続いて入った。
文乃は戸口のところで見ていた。中へ入るときに、戸を押さえていた。
「三羽とも入った」
「……明日も、朝でいいのよね」
「朝でいい。水が先だ」
文乃は紙を出して、いちばん上に日づけを書いた。そのあとは何も書かずに閉じた。
俺は土間へ下りずに、文乃の横に座った。
板を出して、今日のぶんを下に足した。水は棒で一回。鶏は小さいのから。灰は朝のうちに。
書きおえてから、上のほうを見た。消したところには、炭の粉が寄っている。
板の残りの項目を、俺は消さずにおいた。




