くらべるための板を、先生がわたしにくれた
「その字は、きょう出す」
先生が、壁の紙のほうへあごを向けた。
壁の紙は、いちばん上に大きい字が三つ。その下は、小さい字でうまっている。上の二つは春に読めた。三つ目だけが、見ても音にならないままだった。
「夏までって言ったよ」
「言った。だから、きょうだ」
先生は炭を持って、壁の板の前に立った。書いているあいだ、背中で板が隠れた。書きおわってから、こっちを向いた。
わたしは、板の字と紙の字を、目で行ったり来たりさせた。おなじ形だった。
「おなじだ」
立って、紙のところまで行った。近くで見ると、字のまわりに、うすい丸がいくつも付いている。前に、だれかが指でさわったところだ。
「さわるな」
「さわってない」
「跡が見える」
「わたしのじゃないよ」
「おれのでもない」
座って、灰に書いた。上の棒から引いた。書いてから、もういちど紙を見た。
上の三つが、ぜんぶ読めた。
「よめた」
「言ってみろ」
「き、ま、り」
「そうだ」
「きまり?」
「そこに書いてあるのが、塾のきまりだ」
わたしは、下の小さい字を見た。まだ、ぜんぶは読めない。
「先生。下のほうは、なんの話」
「自分で読め。そのために来てる」
「つむぎ、行くんだろ」
うしろの子が言った。
「行くよ」
「いつ」
「秋」
「秋って、すぐじゃん」
「すぐだって、おかあさんも言ってた」
となりの子が、灰から顔を上げた。去年から来ている子で、わたしより大きい。
「うちのとうさんは、東の町まで馬で二日だ」
「もっと先だよ。馬車で四日か、五日」
「五日か」
その子は、指を四本立てて、それから五本にした。立てたまま、しばらく見ていた。
「とおいな」
「とおい」
「かえってくるのか」
「かえってくる。季節ごとに」
「ふうん」
その子は指を下ろして、次の字を書きはじめた。
「向こうにも、塾みたいなのがあるの」
うしろの子が訊いた。
「あるって」
「灰に書くのか」
「わかんない」
「灰じゃなかったら、なんに書くんだよ」
「わかんない」
三人で、しばらく考えた。だれも分からなかった。
「手が止まってる」
先生が言った。わたしたちは、書いた。
昼まえで終わりだった。帰りに、井戸のほうから呼ばれた。
「秋に行くんだってねえ」
おばさんは、綱を手繰っているところだった。
「うん」
「遠いねえ」
「馬車で四日か、五日」
「そりゃあ遠い」
桶が上がってきて、井戸の縁に当たって鳴った。おばさんは、両手で持ち替えた。
「帰ってくるのかい」
「季節ごとに」
「そうかい」
おばさんは、それから水の話をした。今年は、下がるのが去年より遅いという話だった。
塾は、夏のあいだも毎朝あった。
三つ目を習ってから、紙の下のほうも読めるようになった。小さい字は、上の三つより形が細かい。はじめは、行の頭しか拾えなかった。拾えるところが増えると、飛ばすところが減った。飛ばしたぶんは、そのつど訊いた。訊くと、先生は板に書いてくれる。書いてもらったのは、灰に三回書いた。
朝は、まだ土間が冷たい。昼にちかづくと、奥の竈のほうから、ぬるい風が来る。座るところは、日ごとに前へ行った。わたしは、だんだん早く来るようになっていた。
「また、いちばんか」
「いちばん」
数のほうもやった。数は、覚えるのが少ない。それでも、まとめて書くところでまちがえる。
「そこだ」
先生は、まちがえたところだけを指でさす。さされたところを直すと、あとは合っている。
「なんで、そこだけ分かるの」
「毎年、そこでまちがう」
紙のいちばん下まで読めた日、わたしは、はしから声に出して読んだ。
灰は、ならしてから書くこと。吹かないこと。箱は、重ねて置いていくこと。おくれた子は、うしろに座ること。
「知ってた」
「知ってても、書いてある」
「なんで」
「あとから来た子が読む」
わたしは、はじめて来た日のことを思い出した。あの日は、いちばん後ろだった。あの日は、読めなかった。
その日、帰るときに呼ばれた。
「つむぎ」
「なに」
先生は、重ねてある箱の下から、板を一枚出した。うすい板だった。片面いっぱいに、炭で字が書いてある。ならびは、習った順だった。
「持っていけ」
受け取ったら、思ったより重かった。両手で持って、戸口の明るいほうへ向けた。字は、はしまでぎっしり入っている。
「これ、なに」
「手本だ」
先生は、板のはじのところを指でさした。
「向こうの字が同じなら、いらん。違ったら、これで比べろ」
「おなじじゃないの?」
「知らん。おれは行っていない」
先生は、壁の紙のほうを見た。
「同じなら、はじめからやらんで済む」
わからないことの、ひとつ目だ。数えはじめてから、まだ答えは出ていない。
「ありがと」
「平らにして、上へ置いていけ」
わたしは、箱の灰に手のひらを当てて、押した。それから、重ねてある上に置いた。
帰るまでのあいだを、数えることにした。
行くのは秋だ。帰るのは季節ごとだと言われた。指を二本立てて、あいだを見た。秋のつぎは冬だ。あいだに、ほかの季節は入らない。だから、ひと季節ぶんだ。
その日のうちに、おとうさんの家へ行って、順に言った。
「水は、二軒ぶんだよ」
「ああ」
「うちのは坂の上だから、井戸から二回」
おとうさんは、書きつけの板を出した。
「担ぐ棒を出す。両はしに提げれば、一回で上がる」
「一回」
「一回だ」
おとうさんは、板に何か書いた。わたしは横から見た。数のところは読めた。字のところは、はじめの一つだけ読めた。
「あってる?」
「合ってる」
「火は、落としていく」
「ああ」
「でも、サナが帰るかもしれないから、枝は置いとく」
「置いとけ」
うちへ戻って、焚き口のところに、細い枝をそろえて置いた。太い薪は、その横に立てた。すぐ組めるように、長さもそろえた。
鶏は、三羽いる。朝に出して、夕方に入れる。
「鶏も、たのむ」
「ああ」
「いちばん小さいのが、いちばん先に入るよ。あとから入れると、けんかになる」
「先に入れる」
「そう。あと、いちばん小さいのは、桶のふちに乗るよ。乗っても、なんにもしないから、そのままでいいよ」
「乗るだけか」
「乗るだけ」
おとうさんは、板に、鶏、と書いた。数は書かなかった。三羽なのに、と思ったけれど、言わなかった。
あずかりものは、一つだけ残っていた。下の家の豆だ。
鉢を抱えて坂を下りていったら、下から声がした。
「持ってこなくていいのに」
下の家のおばさんだった。畑の縁のところに立っていた。
「返す」
「まだ入ってるじゃないか」
「うん。でも、こっちに置いていくものだから」
「そうかい」
おばさんは鉢を受け取って、中を覗いた。
「豆は、豆のままだねえ」
「うん」
「いつまで保つんだい、これ」
「わかんない」
おばさんは笑った。
「じゃあ、早めに使うよ」
それから、少し黙って、鉢を持ち直した。
「ひと季節、いないのかい」
「うん」
「長いねえ」
「長い?」
「長いよ」
おばさんは、坂の下のほうへ歩いていった。途中でふり返って、もういちど言った。
「帰ってくるんだろ」
「帰ってくる」
坂を上がりながら、数えた。
水が二軒。火が一つ。鶏が三羽。あずかりものが一つ。
どれにも、やる人がついた。ついていないのは、あずかりものだけだ。あれは、わたしが帰るまで、たぶん誰も持ってこない。
夜、となりへ行って、箱を出してもらった。
「板、入れる」
おかあさんは、蓋を横へ置いた。
中は、前に入れたままだった。着るものが二枚。ひもが一本。板が一枚。炭が三つ。炭は布に包んで、いちばん下にしてある。
わたしは、手本の板を上に置いた。置いてから、いちど出した。うすい板だ。下に入れると、上のものに押されて、字がこすれる。
いちばん上に、字のあるほうを上にして置いた。
おかあさんは、台のところから見ていた。
「……入るのね」
「入った」
おかあさんは、近くへ来て、板を持ち上げた。字のならびを、はしから目でたどっていた。それから、同じ向きで箱へ戻した。
「あのね、先生が書いてくれたの」
「……そう」
「向こうのと、くらべるんだって」
おかあさんは、指を一本のばして、板のはしについた炭を払った。払ったぶんが、指の腹に付いた。おかあさんは、それを拭かなかった。
蓋をのせたら、ちゃんと下りた。
わたしは、指で押さえながら、中を数えた。
箱の中身は、八つになった。




