娘に訊く前に、俺は三つの条件を取った
「秋って、夏を越えたらすぐよ」
文乃は台に紙を広げて、端を指で押さえていた。
「夏のあいだに決めることになる」
「……そうね」
俺は板を出して、こちらから訊くことを書き出した。文乃は紙に、別のことを書いている。
途中で覗いた。俺の板と文乃の紙には、一つも同じことが書いていなかった。
俺のほうは、帰る時期。辞めて帰れるかどうか。行き帰りの人。持っていくもの。金の出どころと、その返し方。
文乃のほうは、何を教えるのか。誰が教えるのか。魔法の使い方を教える、というのは何をさせるのか。同じ年の子が何人いるのか。うまくいかない子は、そのあとどうなるのか。
「二人で書くと、こうなるのか」
「……重なったら、どちらかが要らないもの」
文乃が板を引き寄せて、書いたところを読んだ。それが済むと、こっちへ押してよこした。かどが、俺の手の甲に当たった。
「これ、訊いてくれる」
「訊く」
「……全部?」
「全部だ。答えないところが、答えになる」
文乃は書く手を止めて、それから、紙のいちばん下にもう一行足した。
「……いちばん下のは、私が訊くわ」
「分かった」
訊くことは二枚の紙にして、発つ前にローレンツへ渡した。ローレンツはその場で一度読んで、それから鞄の、書類を入れたのと同じところへ入れた。
「主家に持ってまいります。返事は、私が持って戻ります」
馬車は二晩目の朝に出ていった。
村長のところへは、その日のうちに行った。
村長は石段の下にいて、段の上の土を手で払ってから腰を下ろした。
「行くのか」
「まだ決めていません。決める前に、村長に入っておいてもらいます」
「……断って、いいものなのか」
「断れるように書かせます」
「書かせる、か」
「書いてあれば、断れます」
村長は足もとの草を一本抜いて、指のあいだで回した。
「入るのはいいが、おれは学のことは分からんぞ」
「分からないところは、俺も分かりません」
村長は笑った。
「塾の先も、字の先も、ここには無いからな」
言ってから、上の段のほうへ目をやった。
水はどうする、と訊かれると思っていた。訊かれなかった。
「水は、元に戻るだけだ。前は、無かった」
村長はそう言って、膝に手を置いて立ち上がった。
「種を出した日に、あんたが書いてた板があるだろう。あれは、置いていけ」
「置いていきます」
ヨナスは切り株のところにいた。割った薪を軒の下へ運んでいる。蒔きのあとに出した木だ。
「聞いたぞ」
「早いですね」
「村長のとこに二晩も泊まれば、村じゅうが聞く」
ヨナスは運ぶ手を止めなかった。俺は足もとに落ちた一本を拾って、積む先まで持っていった。
「おれの婆さんは、村から出たことがない。八十まで生きた」
「そうですか」
「出たやつも知ってる。あれも生きてる」
それで終わりだった。ヨナスは次の一抱えを取りに戻り、そのあとは薪の乾きの話をした。
十日あまりして、馬車がまた来た。
今度は子供が集まらなかった。二度目だからだ。娘は畑の道を通って、そのまま上の段へ上がっていった。
村長の家の土間には、前と同じように筵が敷いてあった。文乃も来た。紙を持ってきている。
「主家に伺ってまいりました」
ローレンツは包みを開いて、紙を三枚並べた。並べ方は前と同じだった。三枚目の下のほうに、前には無かった行が増えている。
「お書き足しいたしました。合わないとお考えになったときは、いつでもお帰りいただけます。時期も、回数も、こちらからは決めません」
俺は読んだ。同じ手で書いてある。足した行だけ、墨がまだ黒い。
「帰るときの、行き帰りは」
「こちらで出します。行きと同じです」
俺は三枚目を村長のほうへ回した。村長は覗いた。それから、俺の顔を見た。
「……よく書かせたな」
声は低かった。村長は紙を俺の手もとへ返した。
「季節の節目に帰る、というのは、誰が決めますか」
「決まった時期がございます。こちらの都合で動かすことはありません」
「麦の刈り入れと重なりますか」
「重なる年もございます」
「重なると、こちらは人を出せません」
「行き帰りの人は、こちらが出します。そこは変わりません」
俺は板に、重なる年もある、と書いた。
「もう一つあります」
俺は板に書いてあるうちの、最後の一つを見た。
「行き帰りも、入用のものも、主家が持つと書いてあります。そのぶん、うちは何を返すことになりますか」
ローレンツは、並べた紙のいちばん上を、指の腹で一度だけ押さえた。
「……返していただくものは、書いてございません」
「書いていないものは、あとから増えます」
「増やす家ではございません」
「増やさない、と書けますか」
ローレンツは、そこで一つ息を吸った。
「主家は、値打ちのあるものには、先に手を掛けます。掛けたぶんを、あとから取り立てる家ではございません」
値打ち、と言った。俺は板に、その語を書かなかった。
「お書きします」
ローレンツは三枚目の余白にもう一行足して、書きながら声に出した。
「奉公その他、返礼の義務を負わない」
「それで、けっこうです」
文乃が紙を開いた。
「……教えるのは、どういう人たちですか」
「書いたものは、まだ主家から出ておりません」
ローレンツは、すぐには続けなかった。
「国じゅうから集めた、いちばんの先生がたです。私が申し上げられるのは、そこまでです」
文乃は書いた。書いてから、並んだ紙の一枚に指を置いた。
「……この行の、魔法の使い方というのは、何をさせるんですか」
「私は、その場を見たことがございません。紙にあること以上は、お伝えできません」
文乃は、指を離さなかった。それから、その行を写した。
「……うまくいかない子は、そのあと、どうなりますか」
ローレンツは、少し考えるふうをした。
「聞いておりません」
「……そう」
文乃は、その答えも書いた。
「返事は、いつまでですか」
「秋の初めまでにいただければ。それより早ければ、こちらは助かります」
「今夜、娘に訊きます」
ローレンツが、はじめて少し顔を動かした。
「お子さんに」
「訊きます」
ローレンツは紙を集めた。三枚目だけを、いちばん上にして重ねた。
夜、娘が水を出しに来た。
出しおわってから、竈の口のところに座って、火を見ていた。俺は板を置いて、向かいに座った。
「つむぎ」
「なに」
「昼に来た人の話だ」
「うん」
事実だけ並べた。遠いこと。馬車で四日か五日かかること。向こうで泊まること。すぐには帰ってこられないこと。季節の変わり目には帰ってこられること。字も、数の勘定も、塾よりずっと先まであること。
「行くか、行かないか」
娘は火を見たままだった。
「決めるのは、つむぎだ」
「わたしが?」
「そうだ」
「おとうさんは、行ってほしい?」
訊き返された。俺は薪を一本足してから答えた。
「行ってほしくはない。だが、行かせないと決めるのは、俺じゃない」
「ふうん」
「合わなかったら、帰っていい。帰ってきていい、と紙に書いてもらった」
「かみに」
「書いてある」
「見せて」
俺は三枚目を出した。娘は膝に置いて、上から順に指でたどっていった。読めるところで指が止まって、それから、また動いた。
「これ、読めない」
「まだ習っていないところだ」
「ふうん」
娘は紙を返して、立った。それから、また座った。
「かんがえていい?」
「夏のあいだは、待ってもらう」
「なつ」
「麦を刈ってから、暑いあいだだ」
「わかった。かんがえてから、言う」
言ってから、指を折って、何かを数えはじめた。




