アドラー家の使いが、娘を学園へと言った
坂の下で、車輪の鳴る音がした。石を踏む音が混じっている。蹄だ。二頭いる。
俺は畑の縁で溝の泥をさらっていた。手を止めて、道の曲がりのほうを見た。幌を張った車が入ってくる。荷を積む形ではない。車輪が高くて、幅がある。轍の幅は、村の道より広い。この坂は上がれない。
広いところの手前で止まった。御者が下りて、馬の口を取った。子供が先に集まった。走ってきて、少し離れたところで止まって、それから車輪のほうへ寄っていった。
娘も来ていた。石段の上のところから見ている。下りてはこない。俺が、そこから目を戻すのに、間があった。
村長が家から出てきた。上着を着ている。畑へ出るときのものではない。御者ではないほうの男と短く話して、男は村長のあとについて家へ入っていった。しばらくして、村長が戸口から顔を出した。
「直さん」
「はい」
「上がってくれ。あんたの家の話だ」
村長の家の土間に、男が立っていた。
入る前に、外で埃を払っていたらしい。肩が、まだ少し上下している。旅装は丈夫だが、上等ではない。靴は履き替えていた。年は、俺より一回りほど上に見える。
村長が筵を敷いた。
「アドラー家の用向きを預かっております。ローレンツと申します」
男は名乗って、頭を下げた。下げ方に無駄がない。
「杉本直です」
「直さん、と伺いました。そう呼ばせていただきます」
「その、アドラー家というのは」
村長が先に答えた。
「この土地の、領主様だ」
俺は村長を見た。村長はローレンツのほうを見たままだった。
「あんた、知らんで訊いたのか」
「知りません」
「……そうか。あんたはそうだったな」
ローレンツが、あらためて頭を下げた。
「申し遅れました。主家は、アドラー伯爵家と申します。この村も、東のリューデンも、御領内でございます」
「リューデン」
「市の立つ町でございます。この村からですと、馬で二日かと。主家の蔵もそこにございます」
村長が横から言った。
「うちの村が納めるのも、そこだ。リューデンの代官所へ、おれが持っていく」
「さようでございます」
「使いの人が村まで見えたのは、おれの覚えでははじめてだ」
「私も、この村ははじめてでございます」
村長は上着の前を引いて、合わせを直した。
ローレンツは肩の荷から布の包みを出して、紐をほどいた。中から紙を三枚、順に並べる。並べ方は決まっているらしく、迷わなかった。
「先に、こちらの用向きを申し上げます。それから、伺います」
「どうぞ」
「リンデ学園と申します。国と、いくつかの家が金を出しております。この国では、いちばん格が高いとされる学園です」
「そこに、うちが、どう関わりますか」
「主家は、お子さんをそこへ推薦したいと考えております。家の枠が一つございます。毎年、一人までと決まっております」
村長が、筵の上で座り直した。
「なぜ、うちの子の話になるんですか」
「冬に、東の市で。よく回る話でした。水の絶えない村がある、と。主家は人をやって、確かめました」
針の紙を畳んでいた手を思い出した。畳む手は、止まらなかった。
あの行商人は、買うだけ買って帰った。売ったもののほうに、それが入っていたということだ。
俺はあの日、話を切った。切ったところで、村じゅうが知っている。井戸端に半日いれば足りる話だ。
「確かめた、というのは」
「人をやりました。買い物をして、話を聞いて、帰らせました。村の方に伺えば、みなさん同じことをおっしゃいます」
「それは、そうでしょうね」
「隠しておられなかった。こちらとしては、それで足りました」
悪びれてもいないし、誇ってもいなかった。仕入れの話をするときの声だ。
「何を教えるところですか」
「私は使いの者ですので、伺っております範囲で申し上げます」
ローレンツは、そこで一度、言葉を置いた。
「字と、数と。それから、この国で通る書き方です」
「書き方」
「証文、帳面、届け。書きようが違えば、受け取ってもらえません。字が読めるだけでは通りません」
突き返される書類のことなら、俺も知っている。
知っているのは、俺のいたところの書き方だ。ここのものではない。
「出たあとは」
「家の帳面を任される者が多うございます。役所に入る者もおります。教える側に立つ者も」
ローレンツは背を起こした。
「教える人たちのことは、次に参るときに、書いたものをお持ちします。私が申し上げると、間違えます」
「距離は」
「馬車で四日から五日です。荷を積まずに行った場合で」
「泊まりですか」
「寮に入ります。季節の節目には、こちらへお帰しします。時期は書いたものにございます」
「これまでに、その枠で行った子は」
「私の知るかぎり、四人です。みな、続いております」
ローレンツは、紙を上から一枚ずつ俺のほうへ回した。回すとき、紙の向きを直してから押し出した。
読むのに手間はかからなかった。字が大きく、行と行のあいだが空けてある。読ませるために書いた紙だ。
紙を読むときの手は、本社のやり方に戻る。まず上から下まで一度通す。次に、日にちと数のところだけ拾って、横に並べて比べる。最後に足す。
「ゆっくりご覧ください」
書いてあることは、こうだった。推薦する者の名。学園の名。入るのは今年の秋。行き帰りは主家が出す。入用のものも主家が持つ。帰るのは季節の節目で、そのたびに人をつける。
その下に、学ぶものの項があった。字。数。証文と帳面。その次の行に、魔法の使い方を順を追って教える、とあった。
俺は顔を上げた。
「この行は」
「はい」
「うちの子の、あれのことですか」
「私は存じません。紙には、そう書いてございます」
あれの使い方を教えられる者は、村にいない。文乃にも、俺にも教えられない。
数は合っていた。日にちも、前の行と後ろの行で食い違っていない。よく書けている紙だった。
それから、書いていないほうを見た。行くことは書いてある。行ってからのことも、途中までは書いてある。帰ることも書いてある。
やめて帰る、というのが無い。帰ってきて、そのまま行かない。そのことだけが、三枚のどこにも書いていなかった。
「一つ、伺います」
「はい」
「合わなかったときは、どうなりますか」
ローレンツは紙のほうを見なかった。俺の顔を見ていた。
「そういう話は、これまでにございません」
「無いのは分かりました。書いていないことを訊いています」
ローレンツは、指を紙の端に置いたまま、黙っていた。
「……私の一存では、お答えできません。主家に伺います」
「お願いします」
俺は紙をそろえて、ローレンツのほうへ戻した。戻すとき、出されたときと同じ向きにした。
「家で話します。返事は、こちらから」
「けっこうです」
「それと、村長にも入っていただきます」
村長がこっちを見た。
「おれが入って、どうする」
「村の話にもなります。人が一人、村から出ます」
「……なるな」
村長は腕を組んで、それから、土間の外のほうを見た。
「遠いな」
「四日か五日だそうです」
「歩きだと、どれだけだ」
「歩く話は、していません」
村長は鼻から息を出した。
「帰ってくるのか」
「季節の節目には、と書いてあります」
「なら、いい」
それだけだった。村長はそのあと、麦の話をした。今年は溝を開けるのが早かった、という話だ。ローレンツは、そちらにも同じ調子で相づちを打っていた。村長の上着の前は、いつのまにか開いていた。
「お返事は、急ぎません」
ローレンツは紙を集めて、順に重ねた。重ねる順番は、出したときの逆だった。
「二晩、村長さんのところに置いていただきます。そのあいだに、伺えることがあれば伺います。無ければ、そのまま発ちます」
俺は板を出して、二晩、と書いた。
「一つだけ、先に申し上げておきます。主家は急いでおりません。急いでいるように見えたなら、それは私の不手際です」
言い方は、値を下げるときの言い方に似ていた。
ローレンツは立って、戸のところで袖を一度直した。外で埃を払ったときと同じ手つきだった。
表へ出ると、日が傾いていた。
広いところの馬は水を飲んでいた。桶が二つ置いてある。若い衆が汲んできたらしい。桶は村のものだった。
子供はもういない。畑のほうで声がしている。
娘は、石段の上のところにまだいた。座って、膝を抱えて、こっちを見ている。手は振らなかった。俺も振らなかった。
溝の泥は、さらいかけのままだ。日のあるうちに済ませておきたい。
「直さん」
呼ばれて、振り返った。
ローレンツは戸口に立ったままだった。
「水の絶えない子、と伺っています」




