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三歳の娘を探して異世界へ渡った。俺を見つけたのは、水を出す魔法を覚えた八歳の娘だった  作者: 船越千里
第五章 春、塾に通う

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おかあさんの紙は、まえとうしろで字がちがった

 塾の壁に、紙が貼ってある。

 はじめて来た日から、ずっとそこにある。上のほうに大きい字が三つ、その下に小さい字が並んでいる。前は、模様みたいに見えていた。

 きょうは、上の三つのうち、二つが読めた。

「それ、なんて書いてあるの」

 となりの子に訊いた。

「読めばいいだろ」

「二つは読めたよ」

「じゃあ、三つ目も読める」

 読めなかった。しばらく見ていたけれど、読めなかった。

「教えてよ」

「じぶんで」

 その子は、灰の箱を膝のほうへ引き寄せた。

 先生が来て、壁の板に字を書いた。書いた字を、みんなで声に出す。出してから、箱の灰に書く。書いたら、手のひらで平らにして消す。消したら、また書く。

 きょうのは、上のところに棒が二本ある字だった。二本のあいだが狭いと、別の字になる。

「あいだをあけろ」

「あけた」

「あけてない」

 先生が横から、わたしの箱の上を指でさした。さされたところは、たしかにくっついていた。指で溝を足したら、そこだけ深くなって、字が二段になった。書き直した。

 習った字は、形の似ているものでまとめて置いている。上に棒がある字と、下が丸い字と、そういうふうにだ。

 先生は、出てきた順に並べて覚えろと言った。並べてみたけれど、途中で分からなくなった。だから、似ているものでまとめたままにしてある。

「先生。あれ、なんて書いてあるの」

 わたしは壁の紙をさした。

「三つ目は、まだ出てきていない字だ。夏までには出る」

「夏」

「そのころには、その下も読める」

「先生。字は、ぜんぶでいくつあるの」

「数えたことはない」

「数えられないの?」

「数えれば数えられる。数えても、覚える数は変わらん」

 それもそうだ、と思った。


「つむぎ、名前が書けるようになったんだって」

 うしろの子が言った。

「書けるよ」

 わたしは灰に書いて、箱をみんなのほうへ回した。

「ほんとだ」

 となりの子は、自分の名前を書いて、こっちへ回してきた。わたしのより長い。

「そんなにあるの」

「四つだ。ここ、二つに見えて一つなんだ」

「どこが」

「ここ」

 言われても、二つに見えた。

「じゃあ、二つでいい?」

「よくない」

 うしろの子が笑った。となりの子も笑いながら、灰の上のそこを一度押した。押したら、ほんとうに一つになった。

「うちのとうさん、東の町へ行ったことがある」

 その子が言った。

「ひがしのまち」

「馬で二日だって。通りに店がならんでて、店の前に札が下がってるんだって。ぜんぶ字が書いてあるって」

「なんて書いてあるの」

「知らないよ。おれは行ってない」

「二日って、どこまで行ったら二日なの」

「知らない。おれは、坂の下までしか行ってない」

「わたしも」

 二人とも、行っていなかった。

「読めたら、分かるのにね」

「そうだよ」

 その子は、灰を手で平らにして、自分の名前を消した。

「東の町には、ここより先を教わるところもあるんだって」

「塾の、先?」

「もっと先だ」

「もっと先って、なに」

「知らない」

 知らない、と言ったあとで、その子は行ったことがあるみたいな顔をした。

 わたしは、通りのことを考えた。店の前に札が下がっていて、それがぜんぶ字だという。どれだけあるんだろう。


 昼まえに終わって、坂を上がった。うちの水と火をやって、干したものを入れて、あずかりものに手をかざした。それから、となりへ行って、あっちの水も出した。

 台のはしに、おとうさんの板が置いてあった。書きつけの板だ。隅のところに、数と字が書いてある。

 数はぜんぶ読めた。字は、はじめの一つだけ読めた。読めた一つは、きのう習ったのだった。

「きのうの」

 おかあさんは、その横で紙をひらいていた。わたしは立って、上から見た。

 まえは、ならんでいるだけに見えた。いまは、一つずつ切れて見える。切れて見えると、そこだけ拾える。

 拾えるのは、まだ、指で足りるくらいしかない。塾で習ったぶんだけだ。それでも、上のほうに二つあった。少し下に、また一つあった。

「あった」

「……なにが」

「習ったのが、ここと、ここ」

 おかあさんは、わたしのさした指のところを見た。それから、紙を少しだけこっちへ寄せた。

 きょう習ったのも、あった。棒のあいだが、ちゃんとあいていた。

「これも」

「……そう」

 紙は、後ろへ行くほど字が小さい。はしのところが少し波打っている。何回もめくったからだ。

 行のしまいのところに、このあいだ書いたのと同じならびがあった。

「これ、わたしだ」

 おかあさんの指が、紙の上で止まった。

「……そうね」

 つま先が、ひとりでに二回はねた。

「わたしのことが書いてある」

 おかあさんは、紙をもう少しだけこっちへ寄せた。

 わたしは、そのならびを指でたどった。板に書いたときとは、大きさがちがう。おかあさんのは、ずっと小さい。小さいのに、形は同じだ。

 同じならびは、下の行にもあった。その下にもあった。ときどき、行の下に線が引いてある。

「いっぱいある」

 おかあさんは、うなずいた。

 同じならびの横には、知らない形が二つならんでいる。声に出してみた。出したけれど、途中で止まった。習っていないものは、音が分からない。

「これ、なんて読むの」

「……そのうち、習うわ」

「いま知りたい」

「……習うほうが、はやいわ」

 わたしは指を離した。はやいと言われると、待つことにしている。


「めくっていい?」

「……いいわ」

 前のほうへめくった。何枚かめくると、字が変わった。

 ならびがちがう。丸い形が少なくて、細い形が多い。行と行のあいだが狭い。一つも知らない。

 知らないといっても、塾でまだ習っていないのとは、ちがう。習っていないやつのまわりには、知っている字が混じっている。こっちは、一つも混じっていない。

 一つ、指で台になぞってみた。曲がるところが、思ったのと反対にいく。二度やって、二度とも反対になった。書きだしがどこなのかも、分からない。

「これ、あっちの字?」

 おかあさんが、こっちを見た。

「……そう」

「おかあさんは、二つの字が書けるんだ」

 おかあさんは、前の紙のほうへ目を落とした。

 わたしは、前の紙と後ろの紙を、順に見ていった。同じ人が書いたのに、まるでちがう。同じなのは、行がまっすぐなことだけだった。

「よめるほうを、さきにぜんぶ覚える」

「……ぜんぶ」

「うん。ぜんぶ覚えたら、うしろのほうは、ぜんぶ読める」

 おかあさんは、紙のはしを押さえていた指を、少しずらした。

「うしろのほうって、どっち」

「こっち。塾のと同じ字のほう」

 おかあさんは、紙を後ろまで戻した。戻して、重ねて、端を台に当ててそろえた。それから、上に手を置いたままでいた。


 外へ出た。影が、まだ短い。坂の下のほうで、子供の声がしていた。

 わたしは、東の町のことを考えた。店の前に札が下がっていて、そこにぜんぶ字が書いてあるという。読める字なんだろうか。読めるなら、下がっているのを、はしから読んでいける。

 となりの子は、行ったことがない。行ったことがないのに、知っていた。

 よめるほうの字は、この村のそとにも、いっぱいあるらしい。


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