おかあさんの紙は、まえとうしろで字がちがった
塾の壁に、紙が貼ってある。
はじめて来た日から、ずっとそこにある。上のほうに大きい字が三つ、その下に小さい字が並んでいる。前は、模様みたいに見えていた。
きょうは、上の三つのうち、二つが読めた。
「それ、なんて書いてあるの」
となりの子に訊いた。
「読めばいいだろ」
「二つは読めたよ」
「じゃあ、三つ目も読める」
読めなかった。しばらく見ていたけれど、読めなかった。
「教えてよ」
「じぶんで」
その子は、灰の箱を膝のほうへ引き寄せた。
先生が来て、壁の板に字を書いた。書いた字を、みんなで声に出す。出してから、箱の灰に書く。書いたら、手のひらで平らにして消す。消したら、また書く。
きょうのは、上のところに棒が二本ある字だった。二本のあいだが狭いと、別の字になる。
「あいだをあけろ」
「あけた」
「あけてない」
先生が横から、わたしの箱の上を指でさした。さされたところは、たしかにくっついていた。指で溝を足したら、そこだけ深くなって、字が二段になった。書き直した。
習った字は、形の似ているものでまとめて置いている。上に棒がある字と、下が丸い字と、そういうふうにだ。
先生は、出てきた順に並べて覚えろと言った。並べてみたけれど、途中で分からなくなった。だから、似ているものでまとめたままにしてある。
「先生。あれ、なんて書いてあるの」
わたしは壁の紙をさした。
「三つ目は、まだ出てきていない字だ。夏までには出る」
「夏」
「そのころには、その下も読める」
「先生。字は、ぜんぶでいくつあるの」
「数えたことはない」
「数えられないの?」
「数えれば数えられる。数えても、覚える数は変わらん」
それもそうだ、と思った。
「つむぎ、名前が書けるようになったんだって」
うしろの子が言った。
「書けるよ」
わたしは灰に書いて、箱をみんなのほうへ回した。
「ほんとだ」
となりの子は、自分の名前を書いて、こっちへ回してきた。わたしのより長い。
「そんなにあるの」
「四つだ。ここ、二つに見えて一つなんだ」
「どこが」
「ここ」
言われても、二つに見えた。
「じゃあ、二つでいい?」
「よくない」
うしろの子が笑った。となりの子も笑いながら、灰の上のそこを一度押した。押したら、ほんとうに一つになった。
「うちのとうさん、東の町へ行ったことがある」
その子が言った。
「ひがしのまち」
「馬で二日だって。通りに店がならんでて、店の前に札が下がってるんだって。ぜんぶ字が書いてあるって」
「なんて書いてあるの」
「知らないよ。おれは行ってない」
「二日って、どこまで行ったら二日なの」
「知らない。おれは、坂の下までしか行ってない」
「わたしも」
二人とも、行っていなかった。
「読めたら、分かるのにね」
「そうだよ」
その子は、灰を手で平らにして、自分の名前を消した。
「東の町には、ここより先を教わるところもあるんだって」
「塾の、先?」
「もっと先だ」
「もっと先って、なに」
「知らない」
知らない、と言ったあとで、その子は行ったことがあるみたいな顔をした。
わたしは、通りのことを考えた。店の前に札が下がっていて、それがぜんぶ字だという。どれだけあるんだろう。
昼まえに終わって、坂を上がった。うちの水と火をやって、干したものを入れて、あずかりものに手をかざした。それから、となりへ行って、あっちの水も出した。
台のはしに、おとうさんの板が置いてあった。書きつけの板だ。隅のところに、数と字が書いてある。
数はぜんぶ読めた。字は、はじめの一つだけ読めた。読めた一つは、きのう習ったのだった。
「きのうの」
おかあさんは、その横で紙をひらいていた。わたしは立って、上から見た。
まえは、ならんでいるだけに見えた。いまは、一つずつ切れて見える。切れて見えると、そこだけ拾える。
拾えるのは、まだ、指で足りるくらいしかない。塾で習ったぶんだけだ。それでも、上のほうに二つあった。少し下に、また一つあった。
「あった」
「……なにが」
「習ったのが、ここと、ここ」
おかあさんは、わたしのさした指のところを見た。それから、紙を少しだけこっちへ寄せた。
きょう習ったのも、あった。棒のあいだが、ちゃんとあいていた。
「これも」
「……そう」
紙は、後ろへ行くほど字が小さい。はしのところが少し波打っている。何回もめくったからだ。
行のしまいのところに、このあいだ書いたのと同じならびがあった。
「これ、わたしだ」
おかあさんの指が、紙の上で止まった。
「……そうね」
つま先が、ひとりでに二回はねた。
「わたしのことが書いてある」
おかあさんは、紙をもう少しだけこっちへ寄せた。
わたしは、そのならびを指でたどった。板に書いたときとは、大きさがちがう。おかあさんのは、ずっと小さい。小さいのに、形は同じだ。
同じならびは、下の行にもあった。その下にもあった。ときどき、行の下に線が引いてある。
「いっぱいある」
おかあさんは、うなずいた。
同じならびの横には、知らない形が二つならんでいる。声に出してみた。出したけれど、途中で止まった。習っていないものは、音が分からない。
「これ、なんて読むの」
「……そのうち、習うわ」
「いま知りたい」
「……習うほうが、はやいわ」
わたしは指を離した。はやいと言われると、待つことにしている。
「めくっていい?」
「……いいわ」
前のほうへめくった。何枚かめくると、字が変わった。
ならびがちがう。丸い形が少なくて、細い形が多い。行と行のあいだが狭い。一つも知らない。
知らないといっても、塾でまだ習っていないのとは、ちがう。習っていないやつのまわりには、知っている字が混じっている。こっちは、一つも混じっていない。
一つ、指で台になぞってみた。曲がるところが、思ったのと反対にいく。二度やって、二度とも反対になった。書きだしがどこなのかも、分からない。
「これ、あっちの字?」
おかあさんが、こっちを見た。
「……そう」
「おかあさんは、二つの字が書けるんだ」
おかあさんは、前の紙のほうへ目を落とした。
わたしは、前の紙と後ろの紙を、順に見ていった。同じ人が書いたのに、まるでちがう。同じなのは、行がまっすぐなことだけだった。
「よめるほうを、さきにぜんぶ覚える」
「……ぜんぶ」
「うん。ぜんぶ覚えたら、うしろのほうは、ぜんぶ読める」
おかあさんは、紙のはしを押さえていた指を、少しずらした。
「うしろのほうって、どっち」
「こっち。塾のと同じ字のほう」
おかあさんは、紙を後ろまで戻した。戻して、重ねて、端を台に当ててそろえた。それから、上に手を置いたままでいた。
外へ出た。影が、まだ短い。坂の下のほうで、子供の声がしていた。
わたしは、東の町のことを考えた。店の前に札が下がっていて、そこにぜんぶ字が書いてあるという。読める字なんだろうか。読めるなら、下がっているのを、はしから読んでいける。
となりの子は、行ったことがない。行ったことがないのに、知っていた。
よめるほうの字は、この村のそとにも、いっぱいあるらしい。




