塾の一日と、はじめて書いたわたしのなまえ
「灰は、ならしてから書く」
先生が言った。
わたしは、膝の前の箱を手のひらでならした。平らになって、さっき書いたものが無くなった。
箱は浅い木の箱で、中に灰が入っている。塾では、これに指で書く。
「ならしたか」
「ならした」
みんなで言った。
塾は、石段の下の、土間の広い家でやる。奥に竈があって、朝のうちは、まだ火のにおいが残っている。わたしたちは、その手前に二列で座る。早く来た子から前になるので、きょうは前から二番目だった。はじめの日は、いちばん後ろだった。
先生は、壁に立てかけた大きい板に、炭で字を書く。ゆっくり書く。書きおわると、こっちを向く。
「これが、ひとつ」
わたしは、指で、灰に同じ形を書いた。指の先が、すこし冷たい。
「そこ、上からだ」
先生が、わたしの箱を上から見て言った。
「上から?」
「上の棒を先に引く。下から上げると、しまいがはねる」
わたしは、そのとなりに、もう一回書いた。今度は上から引いた。
ならべて見た。どっちがどっちだか、分からなかった。
だから、次からは、書きやすいほうで書いた。
「これが、ふたつ」
先生が、次のを板に書いた。さっきのに似ている。上のところがおなじで、下だけちがう。
「にてる」
言ったら、先生は、下のところを炭でなぞり直した。
「ここが違う。だから、ここだけ見ればいい」
似ているのは、おぼえやすい。ちがうところが、一つしかないからだ。
三つ目までいって、それから、はじめから三つ、続けて書かされた。三つ目で、二つ目の下のところを忘れた。もう一回、見せてもらった。
「かずも書く」
先生は、板のはしのほうに、べつの形を書いた。字より、みじかい。
「これが、ひとつ。これが、ふたつ」
ふたつは、ひとつに一本足しただけだった。
「三つは?」
「もう一本足す」
「四つは」
「四つからは、まとめて書く。そのほうが、たくさんになったときに楽だ」
わたしは、四つを灰に書いて、三つとならべた。ならべると、たしかにちがう。
字より、こっちのほうが、おぼえるのが少ない。
箱がいっぱいになると、手のひらでならして、また書く。
となりの子が、息で吹いた。灰がふわっと上がって、前の子の背中に降りた。
「吹くな」
先生が言った。
「手でならせ。吹いたら、みんなが灰をかぶる」
前の子が、背中をこっちへ向けて、はらってくれ、と言った。となりの子は、笑いながらはらった。はらうと、また上がった。
わたしは、下を向いて、自分の箱を手でならした。ならしながら、笑った。
となりの子は、下の家の子だ。去年から来ている。わたしより大きい。
「はやいね」
「去年、やったやつだから」
「ぜんぶ、おぼえてる?」
「ぜんぶは、おぼえてない」
その子は、そう言って、また書いた。書くとき、口が動いている。
「なんて言ってるの」
「言ってない」
「動いてるよ」
「動いてない」
動いていた。
昼まえに、おしまいになった。
帰るときは、箱の灰をならして、重ねて置いていく。ならすと、書いたものは無くなる。
わたしは、ならす前に、もういちど見た。それから、ならした。
「先生」
「なんだ」
「わたしのは、どう書くの」
「わたしの、とは」
「なまえ」
先生は、わたしの箱を取って、平らにしてから、指で書いた。書きおわってから、箱をこっちへ回した。
わたしは見た。それから、そのとなりに、自分でも書いた。
「そこは、逆だ」
直された。もう一回書いた。今度は、しまいのところが長くなりすぎた。
三回、書いてもらった。三回目で、見ないで書けた。
「おぼえたか」
「おぼえた」
「なら、消していい」
消すのは、ちょっと惜しかった。でも、ならした。
外は明るかった。土は、もう乾いている。
坂を上がる途中で、下の家のおばさんに会った。桶を提げている。
「どうだい、塾は」
「灰に書くの」
「そうだったねえ。うちのも、去年は指が灰だらけで帰ってきたよ」
わたしは、自分の指を見た。爪のところに、灰が入っていた。
「取れないよ、これ」
「取れるよ。そのうち」
おばさんは笑って、坂を下りていった。
わたしは、上がりながら、頭の中で、もう一回書いてみた。書けた。
歩きながら書くのは、たのしい。手も、灰もいらない。
書くと、わすれない。前に、坂で、そう言われた。
書いたものを消しても、わすれないんだろうか。
うちに戻って、水瓶に手を向けた。
日が入っていると、中まで見える。水が来ているあいだは、底のほうがずっと動いている。動かなくなったら、いっぱいだ。
「いっぱい」
言ってから、手を下ろした。
竈に火を入れた。細い枝から、一本ずつ足していく。きょうは、すぐついた。
外の干し物を先に取りこんだ。風があったので、はしのところが、ぱりぱりになっていた。一枚ずつはがして、腕にのせていった。
棚には、あずかりものが一つある。手をかざして、中で五つ数えて、下ろした。
「ひとつは、すぐ済む」
灰は、朝のうちに、おとうさんのところへ持っていった。このごろ、灰はすてない。塾でも、すてないで使っている。
おとうさんの家へ行って、あっちの水瓶にも出した。
おとうさんは、外で、木の端を削っていた。
「おとうさん」
「うん」
「板、ある?」
おとうさんは、手を止めた。
「板」
「書くやつ。字を書くの」
おとうさんは、足もとに積んである木の中から、切れはしを一つ取った。膝にのせて、小刀で端を落として、平らにした。それから、こっちへ出した。
持つと、片手で持てる。
「炭は、細いほうを使え。太いところは、太く出る」
「うん」
「濡らすな。濡れると、指につく」
「うん」
おとうさんは、また削りはじめた。
うちの前の、平べったい石の上に、板を置いた。
炭で書いた。はじめを大きく書きすぎて、しまいのところが板からはみ出した。はみ出したぶんは、石に付いた。
ひっくり返して、うらに書いた。今度は、はじめを小さくした。ぜんぶ入った。
入ったのを、しばらく見ていた。手でこすってみたら、すこし薄くなったけれど、消えなかった。
「消えない」
鶏が寄ってきた。いちばん小さいのだ。板を見て、つついた。
「これ、字だよ」
いちばん小さいのは、もういちどつついた。それから、横を向いて、砂をつつきはじめた。
暗くなる前に、板を持って、となりへ行った。
おかあさんは、台のところにいた。豆を選っている。台のはしに、紙が閉じて置いてあった。
「おかあさん」
「なあに」
わたしは、板を出した。
「書けた」
おかあさんは、豆から手を離して、板を受け取った。両手で持って、あかりのほうへ向ける。しばらく、そうしていた。
それから、うらを見た。
「……こっちも、つむぎ?」
「そっちは、はみ出したの」
「……そう」
おかあさんは、紙のほうへ手を伸ばした。伸ばして、途中でやめた。
板は、まだおかあさんの手にあった。
「先生が、三回書いてくれたの。三回目で、見ないで書けた」
「……三回」
「うん。上の棒を先に引くんだって。でも、下からでも、おなじ形になるよ」
おかあさんは、うなずいた。板は持ったままだった。
「持ってていいよ」
わたしは、台のはしに寄って、豆を一つまみ取った。悪い豆は、色がちがう。触ると、すこし軽い。
しばらく、二人で選った。
おかあさんが立った。棚のところへ行って、いちばん上に手を伸ばした。背伸びをしていた。
「そこ、とどかないよ」
「……いいの」
おかあさんは、小さい器を取って、また手を伸ばした。それから、台に戻ってきて、また豆を選りはじめた。
わたしは、選りながら、上を見た。
板は、棚のいちばん上に立った。




