春の入口で、俺はやっと前の世界の話をした
土に指を入れた。爪の先くらいまでで、止まった。
上は黒い。そこから下が硬い。掻いても粉になって浮くだけで、崩れてこない。手を抜いて、二歩ずれたところをもう一度試した。同じところで止まった。
畑のまんなかには、まだ雪が残っている。北の縁だけが先に出ていて、出たところは濡れていた。踏むと足の形に沈んで、抜くと水が寄ってくる。
「そこは、いちばん先に出るんだ」
村長が畦に立っていた。手ぶらである。
「毎年ですか」
「毎年だ。日が長く当たる。……だが、そこから蒔くわけにはいかん」
村長は靴の先で土を崩した。崩れたものは、下のほうだけ塊のまま転がった。
「上が乾いても、下が凍っとると、根が下へ行けん。行けんやつは、そこで止まる。止まったやつは、あとから足しても伸びん」
「では、どこで見ますか」
「掘る。掘って、手を入れる。冷たくなくなったら蒔く」
板を出して、炭で書いた。書いていると、村長がこっちを見ていた。
「あんたは、それも書くのか」
「書いておくと、次の年に使えるので」
「……来年もやるつもりか」
「やります」
「なら、書いとけ」
ヨナスが上の道から下りてきた。鍬を担いでいる。
「種を出す日は、いつだ」
「まだ早い」
「早いのは分かってる。分かってるが、決めて回っておかんと、女衆が先に粉にするぞ」
「粉にはせん」
「去年、しただろう」
「あれは余ったぶんだ」
「余ってなかったぞ、あれは」
二人はそのまま去年の話を始めた。誰が何をどうしたという話で、俺の知らない年のことだった。二人とも、相手が喋りおわるのを待たずに喋っていた。
俺は畑の縁を歩いた。
北の縁から東へ回ると、水の来る側で溝が半分埋まっている。落ち葉と、崩れた土と、まだ融けきらないものが一緒に詰まっていた。
「ヨナスさん。溝は、いつ開けますか」
「土が動いてからだ。いま開けると、また落ちる」
「では、そのときに手を貸します」
「貸してもらう。あんたのほうが背が高い」
「背は、関係ありますか」
「無い」
置き場へ寄った。
南に立ててあった筵は、もう外して丸めてある。壁の無い小屋なので、外からでも袋の数は見えた。土台へ上がって、上の面に手を置く。膝の下にあった。
冬のあいだ、袋は上から取った。取ったぶんだけ下がって、いまはここで止まっている。
「下がったな」
村長が石段のほうから来た。
「下がりました」
「今年は、蓄えが薄いままだったな」
村長は、奥の列の結び目を指でつついた。
「薄い年ってのは、蒔くぶんに手をつけるかどうかで決まる。つけた年は、次の年も薄い。そのまた次も薄い。一度つけると、なかなか戻らん」
「つけずに済みました」
「済んだ。あと一度出して、それで終いだ」
村長は土台の縁に腰を下ろした。下ろしてから、坂の下のほうを見ていた。
「出す日は、俺が決めて回る」
「お願いします」
石段を、娘が下りてきた。桶は提げていない。
「おとうさん」
「うん」
「あのね、塾に行っていい?」
「塾」
「字をならうとこ。雪がなくなってから始まるって、言ってた」
娘は土台の縁に手をかけて、片足を掛けて上がってきた。上がってから、袋の上の面に手を置いた。俺が置いたのと同じところだった。
「低くなったね」
「低くなった」
「行っていい?」
「おかあさんには」
「言った」
「なんて言ってた」
「いいって」
「なら、行っていい」
「うん」
娘は土台から飛び降りた。降りてから、村長のほうを向いた。
「村長さんも、行ってた?」
「行っとらん」
「ふうん」
娘は走っていった。途中で一度しゃがんで、また走りだした。何を拾ったのかは見えなかった。
「あれは、ほかの子らと一緒に行くんだろう」
「そうなるみたいです」
「なら、坂は誰かが見とる」
村長は土台の縁に手をついて、腰を上げた。
夜、文乃は紙を開いていた。
冬のあいだは膝に板をのせて書いていたが、今夜は台のほうへ移している。灯りを近くへ寄せて、指で場所を押さえながら、下へ何かを足していた。
俺は土間で縄を綯っていた。溝を開けるときに要る。三本そろえて、端を膝で押さえて、寄る側へ回していく。
「……溝は、いつ開けるの」
「土が動いてからだ。ヨナスさんがそう言った。まだ動いていない」
「……そう」
文乃は書いていた行の下に、線を一本引いた。冬のあいだに、その線が何本増えたのかは知らない。数えたことがない。
縄が膝の横に溜まってきたので、いったん巻いた。巻いたものを脇へ置くと、竈のほうが少し明るくなった。薪が一本落ちて、下から燠が出たのだ。
途中で、手が止まった。止めたつもりはなかった。
「……前は、うまく回してるつもりでいた」
文乃の書く手が止まった。
「回っていたのは、俺の外側だけだ。本社と現場のあいだに立って、両方に頭を下げて、話をつけて、それで通っていると思ってた」
「……うん」
文乃はこちらを見なかった。紙の上で、指だけが同じところに置かれていた。
俺は縄を膝から下ろした。
「前に、この子はほかの子と違う、と言っただろう」
文乃が紙の上に手のひらを伏せた。
「あのとき俺は、そんなものだ、と言って済ませた。こっちへ来てからも、火のつけ方を俺のやり方に直させようとした。二度とも、直そうとしたのは同じところだ」
「……そう」
俺は膝の縄をもう一度取り上げて、端をそろえ直した。そろえてから、また置いた。
「……秋に、手応えというのはこれだろう、と思った。冬のあいだ、消えなかった」
「前は、次の日には消えてた。次の日には、また同じことを一から始めてた」
「……そう」
文乃は紙を閉じた。閉じてから角をそろえて、台の端へ寄せた。
「……薪は」
「割ってある。溝を開けるまでは、あれで足りる」
文乃は灯りの芯を短くした。土間が半分暗くなって、竈の口のところだけが赤く残った。
あの子が、字を習いにいく。いいと答えたのは、私だった。今日のぶんを書いて、その下に線を一本引いた。それで足りるということが、あちらでは通らなかった。ここでは、毎日、目の前で起きる。
冬のぶんも、全部書いた。書いたものを見せたのは、あの人に一度きりだ。それきりにしてある。村の人が知っているのは、朝と夕に器のぶんだけ、という決まりのほうで、その決まりがどこから出てきたのかは知らない。
終わったわけではないのだと思う。
言わないでいるほうを、私はいまも選んでいる。
あの子が読めるようになったら、この紙を見せる日が来るのかもしれない。その日に何を言えばいいのかは、まだ何も考えていない。
朝、戸を開けると、外が濡れていた。
夜のうちに降ったのではない。屋根に残っていたぶんが落ちて、そのまま土に吸われている。踏むと、下のほうでわずかに鳴った。
井戸まで行って、縄を垂らした。まっすぐ下まで行く。桶を上げても、縁に何も張っていない。
畑へ回って、昨日のところへもう一度指を入れた。上は昨日より柔らかい。下は、やはり止まる。冷たいことは冷たいが、昨日ほどではなかった。板に、そのことだけ書いた。
下の家のおばさんが、桶を提げて坂を上がってきた。
「早いねえ」
「土を見ていました」
「まだだよ。あたしの母親が言ってたけどね、焦った年ほど遅いんだ、土ってのは」
「覚えておきます」
おばさんは笑って、井戸のほうへ行った。
ヨナスが鍬を担いで下りてきた。今朝は道の側から回ってきたらしい。
「まだ止まるか」
「止まります」
「あと三日だな」
「三日ですか」
「三日で駄目なら、五日だ」
俺は板に、三日、と書いた。書いたのを、ヨナスが横から見て笑った。
「当たったら、俺が言ったと言ってくれ」
「外れたら」
「外れたら、あんたが書いたことにしとけ」
畑の縁へ戻ると、文乃が立っていた。手に、灰を入れた鉢を提げている。
「……ここ、いちばん先に出るのよね」
「村長がそう言っていた」
「……撒いてみていい。道のときみたいに」
「撒け」
文乃は北の縁に沿って、細く撒いていった。撒いたところだけ、雪の上が灰色になる。撒き終えると、鉢の底を指でこすって、残りを落とした。
「……効いたら、来年は蒔く前に撒くわ」
「効かなかったら」
「……効かなかったと書く」
俺は板に、撒いた日を書いた。書いておけば、来年に使える。
坂の下で、声がした。
子供の声が二つか三つ、下のほうで固まっている。上がってくる声ではない。そこで待っている声だ。
隣の戸が開いた。
娘が出てきた。手には何も持っていない。袖を引っぱりながら、こっちへ寄ってきた。
「おとうさん」
「うん」
「いってきます」
「ああ」
行きかけて、三歩で止まって、戻ってきた。
「水、夕方でいい?」
「いい」
「わかった」
「板は、いらんのか」
「いらない」
「そうか」
今度は止まらなかった。
下の家のおばさんが、井戸のところから坂のほうを見ていた。
「うちのは、去年、塾のはじめの日は口をきかなかったよ」
「そうですか」
「二日目から、うるさくなった」
おばさんは桶を提げ直して、上がっていった。
文乃が戸口に出ていた。何も持たずに、坂の下のほうを見ている。
「……行ったわね」
「行った」
鶏が三羽、娘のあとについていった。二羽は途中で向きを変えて戻ってきて、軒の下へ入った。いちばん小さいのだけが曲がりのところまで行って、そこで座り込んだ。
下で声が合わさった。何を喋っているのかは、ここまで届かない。届かないまま、ひとつになって遠ざかった。
文乃は、坂の下が見えなくなってからも、そこに立っていた。
「……鍋、かけておくわね」
「二日目から、うるさくなるらしい」
「……聞いてたの」
俺は板を持って、溝の側へ回った。回りながら、坂のほうを一度だけ見た。
足音が、坂を下りていった。
戻ってくるときの音も、俺は知っている。




