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三歳の娘を探して異世界へ渡った。俺を見つけたのは、水を出す魔法を覚えた八歳の娘だった  作者: 船越千里
第四章 冬、越えるまで

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春の入口で、俺はやっと前の世界の話をした

 土に指を入れた。爪の先くらいまでで、止まった。

 上は黒い。そこから下が硬い。掻いても粉になって浮くだけで、崩れてこない。手を抜いて、二歩ずれたところをもう一度試した。同じところで止まった。

 畑のまんなかには、まだ雪が残っている。北の縁だけが先に出ていて、出たところは濡れていた。踏むと足の形に沈んで、抜くと水が寄ってくる。

「そこは、いちばん先に出るんだ」

 村長が畦に立っていた。手ぶらである。

「毎年ですか」

「毎年だ。日が長く当たる。……だが、そこから蒔くわけにはいかん」

 村長は靴の先で土を崩した。崩れたものは、下のほうだけ塊のまま転がった。

「上が乾いても、下が凍っとると、根が下へ行けん。行けんやつは、そこで止まる。止まったやつは、あとから足しても伸びん」

「では、どこで見ますか」

「掘る。掘って、手を入れる。冷たくなくなったら蒔く」

 板を出して、炭で書いた。書いていると、村長がこっちを見ていた。

「あんたは、それも書くのか」

「書いておくと、次の年に使えるので」

「……来年もやるつもりか」

「やります」

「なら、書いとけ」


 ヨナスが上の道から下りてきた。鍬を担いでいる。

「種を出す日は、いつだ」

「まだ早い」

「早いのは分かってる。分かってるが、決めて回っておかんと、女衆が先に粉にするぞ」

「粉にはせん」

「去年、しただろう」

「あれは余ったぶんだ」

「余ってなかったぞ、あれは」

 二人はそのまま去年の話を始めた。誰が何をどうしたという話で、俺の知らない年のことだった。二人とも、相手が喋りおわるのを待たずに喋っていた。

 俺は畑の縁を歩いた。

 北の縁から東へ回ると、水の来る側で溝が半分埋まっている。落ち葉と、崩れた土と、まだ融けきらないものが一緒に詰まっていた。

「ヨナスさん。溝は、いつ開けますか」

「土が動いてからだ。いま開けると、また落ちる」

「では、そのときに手を貸します」

「貸してもらう。あんたのほうが背が高い」

「背は、関係ありますか」

「無い」


 置き場へ寄った。

 南に立ててあった筵は、もう外して丸めてある。壁の無い小屋なので、外からでも袋の数は見えた。土台へ上がって、上の面に手を置く。膝の下にあった。

 冬のあいだ、袋は上から取った。取ったぶんだけ下がって、いまはここで止まっている。

「下がったな」

 村長が石段のほうから来た。

「下がりました」

「今年は、蓄えが薄いままだったな」

 村長は、奥の列の結び目を指でつついた。

「薄い年ってのは、蒔くぶんに手をつけるかどうかで決まる。つけた年は、次の年も薄い。そのまた次も薄い。一度つけると、なかなか戻らん」

「つけずに済みました」

「済んだ。あと一度出して、それで終いだ」

 村長は土台の縁に腰を下ろした。下ろしてから、坂の下のほうを見ていた。

「出す日は、俺が決めて回る」

「お願いします」


 石段を、娘が下りてきた。桶は提げていない。

「おとうさん」

「うん」

「あのね、塾に行っていい?」

「塾」

「字をならうとこ。雪がなくなってから始まるって、言ってた」

 娘は土台の縁に手をかけて、片足を掛けて上がってきた。上がってから、袋の上の面に手を置いた。俺が置いたのと同じところだった。

「低くなったね」

「低くなった」

「行っていい?」

「おかあさんには」

「言った」

「なんて言ってた」

「いいって」

「なら、行っていい」

「うん」

 娘は土台から飛び降りた。降りてから、村長のほうを向いた。

「村長さんも、行ってた?」

「行っとらん」

「ふうん」

 娘は走っていった。途中で一度しゃがんで、また走りだした。何を拾ったのかは見えなかった。

「あれは、ほかの子らと一緒に行くんだろう」

「そうなるみたいです」

「なら、坂は誰かが見とる」

 村長は土台の縁に手をついて、腰を上げた。


 夜、文乃は紙を開いていた。

 冬のあいだは膝に板をのせて書いていたが、今夜は台のほうへ移している。灯りを近くへ寄せて、指で場所を押さえながら、下へ何かを足していた。

 俺は土間で縄を綯っていた。溝を開けるときに要る。三本そろえて、端を膝で押さえて、寄る側へ回していく。

「……溝は、いつ開けるの」

「土が動いてからだ。ヨナスさんがそう言った。まだ動いていない」

「……そう」

 文乃は書いていた行の下に、線を一本引いた。冬のあいだに、その線が何本増えたのかは知らない。数えたことがない。

 縄が膝の横に溜まってきたので、いったん巻いた。巻いたものを脇へ置くと、竈のほうが少し明るくなった。薪が一本落ちて、下から燠が出たのだ。

 途中で、手が止まった。止めたつもりはなかった。

「……前は、うまく回してるつもりでいた」

 文乃の書く手が止まった。

「回っていたのは、俺の外側だけだ。本社と現場のあいだに立って、両方に頭を下げて、話をつけて、それで通っていると思ってた」

「……うん」

 文乃はこちらを見なかった。紙の上で、指だけが同じところに置かれていた。

 俺は縄を膝から下ろした。

「前に、この子はほかの子と違う、と言っただろう」

 文乃が紙の上に手のひらを伏せた。

「あのとき俺は、そんなものだ、と言って済ませた。こっちへ来てからも、火のつけ方を俺のやり方に直させようとした。二度とも、直そうとしたのは同じところだ」

「……そう」

 俺は膝の縄をもう一度取り上げて、端をそろえ直した。そろえてから、また置いた。

「……秋に、手応えというのはこれだろう、と思った。冬のあいだ、消えなかった」

「前は、次の日には消えてた。次の日には、また同じことを一から始めてた」

「……そう」

 文乃は紙を閉じた。閉じてから角をそろえて、台の端へ寄せた。

「……薪は」

「割ってある。溝を開けるまでは、あれで足りる」

 文乃は灯りの芯を短くした。土間が半分暗くなって、竈の口のところだけが赤く残った。



 あの子が、字を習いにいく。いいと答えたのは、私だった。今日のぶんを書いて、その下に線を一本引いた。それで足りるということが、あちらでは通らなかった。ここでは、毎日、目の前で起きる。

 冬のぶんも、全部書いた。書いたものを見せたのは、あの人に一度きりだ。それきりにしてある。村の人が知っているのは、朝と夕に器のぶんだけ、という決まりのほうで、その決まりがどこから出てきたのかは知らない。

 終わったわけではないのだと思う。

 言わないでいるほうを、私はいまも選んでいる。

 あの子が読めるようになったら、この紙を見せる日が来るのかもしれない。その日に何を言えばいいのかは、まだ何も考えていない。



 朝、戸を開けると、外が濡れていた。

 夜のうちに降ったのではない。屋根に残っていたぶんが落ちて、そのまま土に吸われている。踏むと、下のほうでわずかに鳴った。

 井戸まで行って、縄を垂らした。まっすぐ下まで行く。桶を上げても、縁に何も張っていない。

 畑へ回って、昨日のところへもう一度指を入れた。上は昨日より柔らかい。下は、やはり止まる。冷たいことは冷たいが、昨日ほどではなかった。板に、そのことだけ書いた。

 下の家のおばさんが、桶を提げて坂を上がってきた。

「早いねえ」

「土を見ていました」

「まだだよ。あたしの母親が言ってたけどね、焦った年ほど遅いんだ、土ってのは」

「覚えておきます」

 おばさんは笑って、井戸のほうへ行った。

 ヨナスが鍬を担いで下りてきた。今朝は道の側から回ってきたらしい。

「まだ止まるか」

「止まります」

「あと三日だな」

「三日ですか」

「三日で駄目なら、五日だ」

 俺は板に、三日、と書いた。書いたのを、ヨナスが横から見て笑った。

「当たったら、俺が言ったと言ってくれ」

「外れたら」

「外れたら、あんたが書いたことにしとけ」

 畑の縁へ戻ると、文乃が立っていた。手に、灰を入れた鉢を提げている。

「……ここ、いちばん先に出るのよね」

「村長がそう言っていた」

「……撒いてみていい。道のときみたいに」

「撒け」

 文乃は北の縁に沿って、細く撒いていった。撒いたところだけ、雪の上が灰色になる。撒き終えると、鉢の底を指でこすって、残りを落とした。

「……効いたら、来年は蒔く前に撒くわ」

「効かなかったら」

「……効かなかったと書く」

 俺は板に、撒いた日を書いた。書いておけば、来年に使える。


 坂の下で、声がした。

 子供の声が二つか三つ、下のほうで固まっている。上がってくる声ではない。そこで待っている声だ。

 隣の戸が開いた。

 娘が出てきた。手には何も持っていない。袖を引っぱりながら、こっちへ寄ってきた。

「おとうさん」

「うん」

「いってきます」

「ああ」

 行きかけて、三歩で止まって、戻ってきた。

「水、夕方でいい?」

「いい」

「わかった」

「板は、いらんのか」

「いらない」

「そうか」

 今度は止まらなかった。


 下の家のおばさんが、井戸のところから坂のほうを見ていた。

「うちのは、去年、塾のはじめの日は口をきかなかったよ」

「そうですか」

「二日目から、うるさくなった」

 おばさんは桶を提げ直して、上がっていった。


 文乃が戸口に出ていた。何も持たずに、坂の下のほうを見ている。

「……行ったわね」

「行った」

 鶏が三羽、娘のあとについていった。二羽は途中で向きを変えて戻ってきて、軒の下へ入った。いちばん小さいのだけが曲がりのところまで行って、そこで座り込んだ。

 下で声が合わさった。何を喋っているのかは、ここまで届かない。届かないまま、ひとつになって遠ざかった。

 文乃は、坂の下が見えなくなってからも、そこに立っていた。

「……鍋、かけておくわね」

「二日目から、うるさくなるらしい」

「……聞いてたの」

 俺は板を持って、溝の側へ回った。回りながら、坂のほうを一度だけ見た。

 足音が、坂を下りていった。

 戻ってくるときの音も、俺は知っている。


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