最後の火をつけたのは、俺の世界の道具だった
竈の灰をかき分けた。
上は白い。掻き分けた下も、白かった。端から順に返して、底まで掻いて、また端へ寄せる。赤いものは出てこない。手のひらを近づけると、温いものだけが残っていた。温いだけだ。
細い薪を一本、灰の上に置いて待った。何も起きない。息を入れても、灰が浮いて散った。
「……落ちたな」
寒くて目が覚めたのだった。土間の空気が、寝る前と違っていた。文乃も起きていて、暗がりで布を巻き直していた。
文乃が竈の前へ来て、俺の手元を見た。それから、同じところへ手をかざした。
寝る前に、燠をまんなかへ寄せて灰をかけた。かけすぎたのかもしれない。窓の下の布が抜けて、風が入ったのかもしれない。布を押してみたが、抜けてはいなかった。どちらであっても、いまは同じだ。
薪はある。土間の隅に、乾いたのが手前に残っている。下の板は見えているが、今夜のぶんなら足りる。無いのは、点けるものだけだ。
「隣を見てくる」
戸を開けた。
夕方に掻いた道が、無くなっていた。降ったぶんが溝へ落ちて、両側が低く、まんなかが高い。娘が朝に踏み固めたところも、そのぶん高くなっている。二十歩の向こうに、あの家の屋根の線だけが黒く見えた。あそこの燠は生きている。今朝、娘が寄せて、灰をかけてきた。飯のときに、平気だと言っていた。あの掛け方なら、明け方までは持つ。
一歩、出てみた。腰まで入って、次の足が上がらない。雪はまだ粉のままで、踏んでも下が無い。外は暗い。手に提げて出られる明かりは、もう無い。
掻いていけば行ける。掻いて、向こうで燠を掬って、抱えて戻ってくる。抱えて戻るには両手が要るし、戻るまでに消えないという保証も無い。村の家はもっと遠い。石段の下まで掻きながら行って、掻きながら戻るのでは、夜のうちには着かない。
「……行けんな」
戸を閉めた。
藁を一束ほどいて、いちばん細いところをよって、鳥の巣のような形に丸めた。棒を一本削って先を丸め、割った薪のまんなかに窪みをつける。窪みの脇に、切り込みを一本入れて下へ抜いた。昼に筵を編むのに使った縄を、棒へ二重に巻いた。膝で薪を押さえ、棒の頭は、木の切れ端で受けた。
両手で引いた。しばらく引いた。窪みが黒くなって、そこで止まる。掌が滑るので布を巻いて、また引いた。煙の出るところまでは行かない。
棒を硬いのに替えた。やはり、そこで止まった。窪みを浅く削り直し、藁を寄せて、もう一度引いた。焦げた匂いはする。それだけだ。
手を止めると、掌の皮が一枚めくれていた。腕が上がらなくなっていた。
「……だめだな」
奥を見に行った。
娘は自分で敷いた寝床のまんなかで寝ていた。三日目なので、敷き方がもう決まっている。布の端が足のほうで丸まっていたので、引いて掛け直した。息は深い。頬に手の甲を当てると、温かかった。三日で、この家の音に慣れたらしい。初めの夜は、風が鳴るたびに一度ずつ起きていた。
戻ると、文乃が奥のほうを見ていた。
俺は首を振った。
文乃は、それきり奥を見なかった。竈の前に座って、膝の上で手を重ねた。
「筵を、もう一枚」
言うと、文乃が立って、昼に編んだのを持ってきた。二人で奥へ運んで、寝床の下へ敷いた。上にも一枚かけた。娘は起きなかった。
土間へ戻って、風の入る側の布を押し込み直した。戸の下も、筵の端を折って詰めた。窓は上を指の幅ぶん残してある。そこから冷たい空気が落ちてくる。塞げば、明日の煙が下りる。塞がないと決めたのは、俺だ。
水瓶の口に、もう薄い氷が張っていた。指を当てると、割れずに沈んだ。夕方に娘が足していったぶんだ。
汁の鍋は竈から下ろして、蓋をして、隅へ寄せた。凍らせると、明日の朝が遅くなる。
竈の横に、藁で編んだ鶏が五羽、乾いているところに並べてあった。二羽は初めの日ので、三羽はきのうのだ。どれも尻のほうが太い。
土間の隅の荷を開けた。
いちばん下に手を入れて、探り当てたものを出す。ライターだ。冷え切っていて、胴のところが荷の底で擦れて曇っていた。しばらく手のひらで包んでから、蓋を起こして、親指で歯車を送った。じ、と鳴って、火花が散った。火は出ない。もう一度送った。同じだった。
火を先に組むことにした。ほぐした藁のいちばん細いところを丸めて、その上へ細く割った薪を立てかけ、まわりにもう少し太い薪を寄せる。いちばん太いのは、まだ載せない。灰は端へ寄せて、窪みの乾いたところまで掻いておいた。風の来る側に、割った薪を一本立てた。組み終えてから、蓋を起こして、指の腹を当てた。
「そっちの風を、押さえててくれ」
文乃が戸のほうへ回って、隙間の前に立った。
しゃがんで、歯車を送った。鳴るだけだった。二度目も鳴った。指がかじかんでいて、三度目は途中で外れた。四度目に、指の下で小さい火が立って、すぐ消えた。手のひらでもう一度温めて、五度目に送った。
火が立って、消えなかった。
藁の端が縮れて、黒くなって、そこから赤くなった。細いのへ移るまで、手を離さずにいた。移ってから、細いのが鳴った。立てておいた薪を寝かせ、太いのを二本足して、燠をまんなかへ寄せる。煙は、まっすぐ上がっていった。壁の下のほうが、先に明るくなった。文乃が隙間の前から離れて、手を後ろへ回して、火にあてた。
手の中のものを振った。音はしない。もう一度振った。同じだった。蓋を閉めて、脇へ置いた。
「……あかるい」
娘が奥から出てきた。目が半分しか開いていない。布を引きずってきて、火の正面に座った。
「ここ、わたしの」
「誰も取らん」
「うん」
娘は膝を抱えて、火を見ていた。文乃がうしろへ回って、乱れたところを分けて、耳のうしろへやった。娘はされるままにしている。それから肩に布をかけてやると、娘は袖のように手を通して、また膝を抱えた。俺は娘の手を取ってみた。冷たくない。
「消えてた?」
「消えてた」
「ふうん」
「おとうさん、手」
「うん」
「なんか、めくれてる」
「触るな」
「はあい」
それ以上は訊かなかった。眠っている途中の顔のまま、鳴るのを待っている。文乃が鍋を戻して、竈に掛けた。底のほうが凍りかけていて、しばらく音がしなかった。
「……ゆめ、みてた」
「そうか」
「あのね、まっすぐの道があるの。両っかわが、かべなの」
「掻いた道だな」
「そう。それを、ずうっと歩くの。くまの、ぬいぐるみを持って」
娘は膝に顎を載せた。
「引っかかるんだよ。太いから。引っぱると、こんどはわたしが引っかかるの。それで、両方でつっかえてるの」
ちいさく笑って、それから欠伸をした。
「重たかった」
欠伸のあとで、目がまた半分になった。火のほうへ、手のひらだけ向けている。あたためているだけだ。
俺は言いかけて、一度やめた。それから、火のほうを見たまま言った。
「あれは、まだある」
「うん」
「向こうの家の、棚の上に置いてきた。取りに行くことは、できない」
「どうして」
「……分からん。戻る道が、無いんだ」
娘は火を見ていた。細いのが崩れて、下の赤いのが上を向いた。
「じゃあ、ずっとここにいるんだね」
訊き返しはしなかった。
文乃の手が、膝の上で重なっていた。
俺は、太いのを一本足した。娘は、それが鳴るまで見ていた。
首がかくんと落ちた。文乃が肩を抱えて立たせて、奥へ連れていった。布を引きずる音が、途中で止まった。
残りの薪を、明日のぶんだけ竈の脇へ寄せておいた。
朝、雪はやんでいた。戸を開けると、音が無かった。降っているあいだは、降る音がしていたのだと分かった。軒から落ちたぶんが、戸の前に山になっている。
崩して、向こうへ向かって掻いた。掻いた雪は道の下手へ寄せる。上手へ置くと、風でまた戻ってくる。踏むと、しゃり、と鳴って残った。今日のは、掻いたら残る。
掻いたところの端に、鶏の足あとが三つで止まっていた。坂の下のほうで、どこかの戸が開いて、閉まった。同じ音が、少し離れたところでもう一度した。村じゅうが同じことをしている。
半分ほど掻いたところで、腰を伸ばした。空は白いままだが、東のほうだけ切れ目がある。日が出れば、南向きの屋根は自分で落ちる。北のはずれの二軒は、西の木で日が回らない。今日はそっちだ。
うしろで戸が開いた。
「火、ついてる」
娘が言った。俺は、掻く手を止めなかった。
娘は土間へ戻っていって、灰を寄せる音をさせた。それから、鍋を火にかける音がした。
文乃が戸口に立って、こっちを見ていた。
今日は、あの人のほうから言った。
言わないでいるのが上手な人だと思っていた。上手なのではなくて、言えなかっただけなのかもしれない。言わないでいるのと、言えないでいるのは、たぶん違う。
私は、何も言わなかった。言うことが、思いつかなかった。
あの子は、それを聞いて、また眠った。重たいものが渡らずに済んだのか、渡って、あの子の中ではまだ軽いだけなのかは、分からない。どちらでも、いまはいいのだと思う。
ノートには、書かなかった。
道が掻けた。
二十歩の向こうで、隣の家の煙が上がっていた。




