よそから来た男は、娘の水を知りたがった
「いってきます」
朝、娘は片方の靴を履きながらそう言った。昨日の晩に転がっていたほうだ。
「ああ」
戸が開いて、閉まった。壁の向こうを、足音が隣へ向かっていく。二十歩に足りない。
しばらくして、向こうの戸が開く音がした。
あっちの水瓶から先に満たす。干し場のものを出して、竈に火を入れて、それが済んでからこっちへ来る。
うち、と言った夜の次の朝も、この子は隣から始めた。
俺も文乃も、それを止めていない。止める話も出ていない。
「灰、まだ生きてるかい」
「生きてます。持っていってください」
祭の片づけは昼までに終わった。板を取りに来た者が、ついでに石を外へ出していった。灰を取りに来た家は二軒あった。
娘は昼前に戻ってきて、残っていたのを食べて、それから村へ出ていった。
行商人が来たのは、その四日あとだ。
背中に大きな荷を負って、もう一つを肩から提げていた。両方とも、俺の背丈の半分ほどの高さがある。それを負ったまま坂を上がってきて、井戸のところで下ろした。下ろすとき、膝を折って、地面に置いてから縄をゆるめた。荷の扱いに慣れた下ろし方だった。
「毎年この時分に、東のほうから回ってます」
男はそう言って、笑った。
名乗られた気がしたが、思い返すと聞いていなかった。喋りが途切れなかったからだ。
村は歓迎した。子供が先に集まって、大人があとから来た。村長も出てきて、荷の横に座った。
「今年は遅かったな」
「一つ手前の村で、屋根の下を借りましてね。降られました。あそこは雨が多い。ここは降らなかったでしょう」
「降らんかった」
「そうでしょうね。道の土が違いました」
男は荷を開いた。
布を広げて、その上に並べていく。塩。針。小刀。鍋の底に当てる鉄の板。砥石。火打ちの金具。針は紙に包んで、太さごとに分けてあった。並べ方に順があって、高いものが奥、毎日使うものが手前だった。
「どこから来たんだね」
「東のほうです。ずっと東で。歩いていると、足の裏が平たくなりますよ」
「次はどこだ」
「行ける先までと決めています。雪が来る前に戻らないといけませんので」
訊いたほうはうなずいて、次のものを見ていた。
俺も輪の中に混ざった。村の者が買うのを横で見て、値の付け方を聞いていた。塩は天秤で量る。小さいほうの皿に錘を載せて、大きいほうへ少しずつ足していく。足しすぎても、男は戻さなかった。
「今のは、おまけです」
「毎年それを言うな」
「毎年しておりますから」
金物は一つずつ売る。値切られると、少し下げて、そのぶん別のものを勧める。
「奥さん、これは去年より安いですよ。鉄が動いたので」
「動いたって、どっちに」
「下に。今年だけです。来年は戻ります」
うまい。買う側が、得をした気になって帰っていく。
男は子供にも何か配っていた。木を削った小さいものだ。全員に一つずつ渡して、足りなくなると荷の底から出してきた。
「これは売り物じゃありません」
日が傾くまで、井戸のところに人がいた。
男はよく喋った。喋りながら、村の一年を聞いていった。麦のこと。刈り入れの時期。屋根の葺き替え。誰の家が建ったか。
「今年は、どこも水で苦労したでしょう。手前の村は、井戸を二つ埋めました」
「うちは掘った。掘っても出んかったが」
「そうでしょうね」
「それでも、しまいまで保った」
村長がそう言った。
「うちの村は、水にだけは困らなかったよ」
誇っている言い方だった。困らなかったのは事実で、村の者はみんなそれを知っている。隠す理由は、村のどこにも無い。
「それは、ありがたい」
「つむぎちゃんがいるからね」
井戸端のおばさんが言った。
「あの子が出したんだよ。桶が二十並んでも、まだ出た」
その二十という数を、この人は自分では数えていない。誰かから聞いて、そのまま覚えたのだろう。数は、そうやって村を回る。
「へえ」
男は針の紙を畳んでいた。畳む手は止まらなかった。
「二十ですか」
「もっとだったかもしれないよ。ねえ」
「あのときは、途中で数えるのをやめたからな」
娘は、そのころには井戸のところに来ていた。金物を覗き込んで、砥石を持ち上げて、重さに驚いていた。人懐こい子だ。知らない大人がいると、まず近くへ行く。
「これ、なに」
「刃を研ぐものです。おじさんが押さえてますから、さわってごらんなさい」
男の話が、そこから細くなった。
「お嬢さんは、おいくつですか」
「八つ」
娘が自分で答えた。
「八つ。うちの村の八つは、まだ水を運べませんよ」
まわりが笑った。
「いつごろから、できるんです」
「小さいころからだね」
おばさんが答えた。
「わたしが知ってるかぎりだと、五つか六つのときにはもう、家のことを一人でやってた」
「誰に教わったんでしょう」
「さあ。誰も教えちゃいないと思うよ」
「そういうこともあるんですね」
男は砥石を娘の手から受け取って、布で拭いて、元の場所へ戻した。それから、次の一つを出した。
「どのくらい、続くんです」
その訊き方だけ、少し形が違った。
値付けの訊き方だ。仕入れるほうが、量と持ちを先に確かめている。ただし、この男は売り物が何かを言わない。買いたいものを言わずに、条件だけ詰めてくる相手を、俺は本社で何人も見た。
「今年の塩は、上がりましたか」
俺は割り込んだ。
「塩ですか。上がりました。冬前はどこも上がります」
「どれくらいですか」
「去年の一割ほど。でも、春には戻ります。持っておいても得はしませんよ。傷みはしませんが、置く場所がもったいない」
「うちの村は、置く場所から先に無いですね」
「どこもそうです」
男は笑った。笑って、また娘のほうを見た。
「つむぎ、置き場を見てきてくれ。北の隅の下に、水が溜まってないか」
「あそこ、なおしたよ」
「なおしたところを見るんだ」
「わかった」
娘は走っていった。走りながら、途中で拾ったものを鶏に見せていた。
「水は、山から来ていますから」
俺は男のほうへ向き直った。
「今年は秋になってから降りました。降れば、こっちの井戸は戻ります」
「そういう井戸ですか」
「そういう井戸だそうです。俺は、去年のことを知りません」
「なるほど」
男はうなずいて、それから、塩の袋の口を縛った。
深追いはしなかった。話は塩に戻り、そのあと針に戻り、それから今年の麦の値の話になった。
男は、買うだけ買って帰った。
干したものと、木の実の袋を三つ。麻を一束。井戸端のおばさんが売ったものの中には、娘が手をかざした鉢のものが入っていた。
「では、また来年」
男は荷を負い直して、坂を下りていった。下りぎわに一度振り返って、村長に頭を下げた。丁寧な下げ方だった。
道の曲がりで見えなくなるまで、子供が三人ついていった。
何も起きなかった。
誰も損をしていない。塩は安く、金物は要るものだった。俺は、あの男に何ひとつ文句をつけられない。
ただ、訊かれたことだけが、あとに残った。
あの人の訊き方は、私に似ていた。
見て、測って、書き留める人の訊き方だと思う。いつからか、どのくらい続くのか。私がこの半年、紙に書いてきたのは、その二つだった。答えを聞いたあとの顔まで似ていた。聞いて、うなずいて、それ以上は言わない。
商いの人だから、そういう聞き方をするのかもしれない。たぶん、そうなのだと思う。
それでも、ひとつ決めた。
あの子の話は、よそではしないことにする。
その夜、風が変わった。
戸の隙間から入ってくるのが、冷たいというより痛い。俺は薪をもう一本足して、灰を寄せた。
「寒いわね」
「明日、もう一枚出す」
娘は隣の家で寝ている。二十歩向こうで、あの子は今夜も自分で灯りを落としたはずだ。
置き場の袋は、屋根につかえる手前まで積んだ。それでも、例年より低いと村長が言っていた。冬のあいだに何度出すかは、もう決めてある。決めてあっても、足りるかどうかは別の話だ。
朝、はじめての霜が降りた。
畑の土の上が白くて、踏むと、音がして沈んだ。
蓄えの薄い冬が、それでも三人の冬が、始まろうとしていた。




