おかあさんが、わたしの名前の話をした
「文乃さんは、いるかい」
朝、戸のところで訊かれた。
「いないよ。さっき井戸のほうへ行った」
おばさんは、ありがとう、と言って坂を下りていった。
その日は、三回訊かれた。夕方までに、もう一回。
このごろ、みんながおかあさんを探している。探して、見つけて、ちょっとだけ訊いて、帰っていく。長くは話さない。おかあさんも長くは話さない。
「朝にふたつ、夕にふたつ」とか、「そっちは、あさっての朝で」とか、そういうのだ。
訊いた人は、うなずいて帰る。帰って、そのとおりにする。
まえのおかあさんは、書く人だった。
よその家に来て、鉢のふたを開けて、中を見て、書いて、帰る。それだけだった。だれも、おかあさんに用があるわけではなかった。
いまは、用があって来る。
「文乃さん。うちのは、あさってでいいかね」
「……ええ。あさっての朝で」
「わかった」
おかあさんは、書く人から、答える人になった。
どっちでもいい。どっちのおかあさんも、あんまり喋らないから、そんなに変わらない。
昼まえに、石段の下のおばさんが桶をふたつ持ってきた。
「これ、お願いできるかい」
「いいよ。そこの鉢も?」
「鉢はいいんだよ。今日はふたつって、言われてるから」
「三つでもいいよ」
「ふたつでいいんだって」
おばさんは、そう言って笑った。
わたしはふたつやった。三つ目は無かった。
頼まれたぶんをやればいいんだから、そのほうがかんたんだ。まえは、いくつ来るか分からなかった。いまは、来る前から決まっている。
「おかあさん、きのう、なんて言ったの」
夕方、そう訊いてみた。
「……器を決めてください、って」
「うつわ?」
「桶とか、樽とか。数を先に決めてください、って」
「ふうん」
よく分からなかった。分からなかったけど、みんな、それでいいという顔をしていた。
次の日の昼から、干したものを畳んだ。
おとうさんは石のところにいる。祭の火を焚くところを作っているらしい。だから、家にはおかあさんとわたしだけだった。
干したものは、このごろ、夕方でもすこし湿っている。畳むと、手の内側がひやっとする。
「おとうさん、まだ帰ってこないね」
「暗くなる前には帰るって」
おかあさんが端を持って、わたしが反対の端を持つ。持って、ぴんと張って、それから合わせる。合わせて、半分にして、また合わせる。二人でやると早い。
しばらく、どっちも喋らなかった。
喋らないのが少し長いな、と思った。
「つむぎ」
「なに」
「……その名前」
おかあさんは、持っていた布を膝に置いた。
「私がつけたの」
「知ってるよ」
わたしは次の布を取った。
「おかあさん、いつも二回呼んだもん。つむぎ、つむぎ、って。二回目のほうが、ちょっと高いの」
おかあさんの手が止まった。
止まって、それから、長く息を吐いた。
「……そうだった?」
「そうだよ」
わたしは布を張った。おかあさんが反対の端を持ってくれなかったので、片手でぶら下げたままでいた。
「あ。ごめんなさい」
おかあさんは笑って、端を持った。
笑ったの、ひさしぶりだと思う。
「糸を紡ぐ、の、紡ぐ」
おかあさんが言った。
「短いのを、一本ずつ繋いでいくの。繋いでいくと、長い糸になるでしょう。あれのこと」
「ふうん」
わたしは布を合わせた。半分にして、また半分にした。
「いい名前だね」
「……そう?」
「うん」
それから、思い出した。
「あのね、指で書いたことあるよね。ここに」
わたしは手のひらを開いて、見せた。
「三つ書いて、これがつむぎだよ、って言った」
おかあさんは、わたしの手のひらを見た。それから、自分の指で、そこに書いた。
くすぐったかった。
「あ、それ。それだ」
「……おぼえてるのね」
「おぼえてるよ」
わたしは布を畳んだ。畳んで、次のを取った。
「おとうさんは?」
「え」
「おとうさんは、名前、なんて言ったの」
「……決められなかったの」
「決められなかったの?」
「たくさん書いて、どれにも決められなかったの。生まれた日から、ずっと」
わたしは笑ってしまった。
おとうさんらしい、と思った。おとうさんは、いまでも先に人に訊く。訊いてから決める。あのころは、訊く人がいなかったのかもしれない。
布はぜんぶ畳んだ。おかあさんは、いちばん上のをもう一回ひろげて、畳み直していた。
それから、村じゅうが祭の支度になった。
石のところの草を刈って、地面をならして、石を丸く並べる。大きいのがひとつと、小さいのがふたつ。並べるのは子供の仕事だ。六人でやった。
「もっと外」
「そんなに外だと、火が届かないよ」
「じゃあ、ここ」
言い合いながら並べて、並べおわってから、みんなで真ん中に座った。座って、上を見た。座るとちょうど、木のあいだから空が丸く見える。去年も、ここに座った気がする。
「まだ火は入れないよ」
通りかかったおじさんに言われた。入れるわけがない。
わたしは水を頼まれた。粉をこねるのに要る水と、鍋の水と、手を洗う水だ。桶で運んで、足りなくなったらまた運ぶ。運ぶあいだに、あちこちで呼ばれる。
「つむぎちゃん、こっちも頼むよ」
「これ、あしたまで持たせておくれ。今日作っちまったから」
「いいよ」
置いてある鉢に、順に手をかざしていった。並べてあるので、端から行くと早い。全部で九つあった。
「助かるよ。あしたの朝、また来るからね」
あまいのは、おばさんたちが大きい鍋で作る。あれは一年に一回しか出ない。
鍋の前に立っていたら、木の匙を渡された。
「味見するかい」
「する」
あまかった。去年のより、ちょっとあまい気がする。
わたしはもう一回、匙を出した。
「一回だけだよ」
「うん」
うん、と言ってから、もう一回もらった。
おばさんは、しょうがないねえ、と言って、鍋をかき混ぜた。
夕方まで、ずっと人がいた。石のところに人がいて、広いところに人がいて、坂の道にも人が上がったり下りたりしていた。いつもは、こんなに人が外にいない。
いちばん小さい鶏が、いつのまにか広いところまで来ていた。追い返そうとしたら、おばさんが、いいよ、明日は放しとくれ、と言った。祭のときは、鶏も外にいていいらしい。
うちに帰ったら、サナはいなかった。
棚を見た。あずかりものは、ひとつも無い。今日、みんな持っていったからだ。板の上が、ずいぶん広く見えた。いちばん奥のぶんだけ、いつもどおりそこにある。
こんなに空いているのは、ひさしぶりだ。
「あした、祭だよ」
棚に向かって言った。棚は返事をしない。当たり前だ。
水を出して、火を細くして、戸を閉めた。
寝る前に、あした、やることを数えた。声に出して数えた。だれもいないから、出しても平気だ。
「ひとつ。朝いちばんに、うちの水と火」
干したものは、あしたは出さない。祭の日に干すと、取り込むのを忘れるからだ。去年、忘れた。
「ふたつ。おとうさんの家の、水と火」
あっちの竈は、うちのより火がつきやすい。土が新しいからだって、おとうさんが言ってた。
「みっつ。鉢を取りに来る人が、九人」
石段の下のおばさんは二つ持っていくから、来るのは八人かもしれない。八人だと、ちょっと早く終わる。
「よっつ。ぜんぶ終わったら、石のところ」
「いつつ……」
いつつが、出てこない。
火は、暗くなってから入れる。それまでは、まだ祭じゃない。
目をつぶった。目をつぶると、かえって目がさえる。
去年も、おととしも、前の日はこうだった。こうやって、ぜんぜん眠れないと思っているうちに、朝になっていた。
あしたは、祭だ。




