村じゅうが、文乃の紙を頼りはじめた
「冬のあいだ、上の段の三軒はどうする」
村長のところに、七人集まっていた。石段に座る者と、地面に座る者と、立ったままの者に分かれている。
「あんた、書けるだろう。書いてくれ」
板を渡された。炭も渡された。俺は膝の上で村の形を引いた。井戸を丸で囲って、段になった畑を三本の線にして、家を四角で置いていく。北のはずれの二軒だけ、線から離して端に置いた。
「そこだ。そこが遠い」
「雪が積もると、下りるのはいい。上がるのがきつい」
「去年、婆さんが途中で座り込んだ」
「そのまま座ってたら凍る」
冬は井戸まで下りるのがつらい家がある。上の段の三軒と、北のはずれの二軒。夏のあいだは桶を提げて何度でも往復できるが、道が凍ると往復そのものが減る。減った分をどこかで埋めなければならない。
「縄も凍るぞ。素手でつかむと、皮が持っていかれる」
「布を巻いたって、濡れたら同じだ」
「上の三軒は子供がいる。あそこは減らせん」
「北のはずれは二人きりだ。減らせるが、汲みに来られん」
困り方が、家によって違う。減らせない家と、減らせるが取りに来られない家がある。同じだけ配れば、どちらも困ったままになる。
「去年は、雪のあいだ、うちのが二日おきに提げて上がった」
「二日おきで足りたのか」
「足りん。足りんが、それ以上は行けん」
薪も同じだ、と誰かが言った。割る場所が雪で埋まると、その日は割らない。割らない日が続くと、火のほうも細くなる。水が凍って、火が細くなる。冬はその二つが同じ時に来る。
「蓄えのほうも決めんといかん。置き場から、いつ、いくつ出すか」
「今年は薄いぞ」
「薄いから決めるんだ」
「雪が深くなると、置き場まで行けん日がある。先に配っておくか」
「配ると食う」
村長が言った。
「食う年に食ってしまえば、春に蒔くものが無くなる。出す日を決めて、その日に出す。決めた日に行けなんだら、その次の日に行く」
男の一人が、俺の板を覗き込んだ。
「あの子に頼めば、水はいいんじゃないか」
誰も、すぐには返事をしなかった。
「あの日みたいに出るなら、冬は楽だ」
「あれは、あの日だけかもしれん」
「毎日となると、話が違うだろう」
「そもそも、どれだけ頼んでいいのか、誰も知らんだろうが」
その通りだった。村が見たのは、井戸が底を見せた日の一日きりである。あの日、誰も数えていない。数えていたのは一人だけだ。
「あんた、どうだ」
村長がこちらを見た。
「あの子は、どれだけ出せるんだ」
俺は炭を板に置いた。
「……俺には、分かりません」
うまい言い方が出てこなかった。出てこないまま、指の粉を膝で払った。
「言っておくがな」
村長が言った。
「あの子は、頼めばうんと言う。うんと言うに決まっとる。だから、こっちで決めておかんといかん。決めずに頼むのは、頼むんじゃない。預けるだけだ」
誰も反対しなかった。
「で、誰が決めるんだ」
「水の回し方は、井戸端の話だ」
村長が膝に手をついて立った。
井戸端に、女が六人いた。桶が並んで、洗い物の途中だった。
文乃はその端にいた。借りてきた鉢のふたを開けて、中を覗いて、指で押して、それから紙に書いていた。俺たちが来たのに気づいて、手を止めた。
村長が話をそのまま持っていった。冬の道のこと。上の段の三軒と、北のはずれの二軒のこと。娘に頼める量が誰にも分からないこと。
「あんたが、いちばんよく見てるだろう」
井戸端が静かになった。
文乃は紙を閉じた。膝の上で角をそろえて、そのまま胸のところで抱えた。俺は、その紙が開かれるのを待っていた。
開かなかった。
「朝と夕に、器のぶんだけ」
文乃は言った。
「器のほうを、決めてください」
声はいつもと同じ高さだった。低くも高くもない。語尾が上がらなかった。
「器って、桶かい」
女の一人が訊いた。
「桶でも、樽でも。数と大きさを、先に決めておいてください」
「なんでだい」
「決まっていれば、その日にどれだけ頼むかを、誰も考えなくて済みます」
それきり、文乃は何も足さなかった。
「足りるのかい、それで」
「足ります」
言い切った。
村長がしばらく地面を見ていた。それから、顔を上げた。
「……助かる」
あとは早かった。上の段の三軒に朝ふたつ、夕ふたつ。北のはずれは、下の家の者が朝のうちに提げて上がる。樽は出さない。出すと、次の日に空にする者がいなくなる。
決めながら、女たちは何度か文乃のほうを見た。見て、うなずかれてから、次へ進んだ。
「そこは、文乃さんに訊いてからにしよう」
誰かがそう言った。誰も、それを変だとは思わなかった。
俺は板を抱えたまま、うしろに立っていた。
文乃は、前にも同じことを言っていた。
元の世界の、あの台所でだ。この子はほかの子と違う、と言われて、俺は、子供なんてそんなものだ、と返した。証拠を出せとまでは言っていない。言わなかっただけで、そう思っていた。
「うちは夕でいい。朝は上の三軒からにしとくれ」
「じゃあ、そうしよう」
こっちへ来てからも、俺は同じことをした。娘が竈の火を細い枝から一本ずつ足していくのを見て、太いのを先に組んでおけと言った。そっちからやると二回になる、と。
娘は、うん、と言って、いつものやり方でやった。火はついた。
二度とも、俺は同じものを否定していた。
板の炭が、手のひらの側面についていた。
坂の下から、娘の声がした。
「サナ? なんにも言わないよ」
おばさんが何か訊いたらしい。声はこちらまで届かなかった。
「うん。もういいって言われたこと、いっぺんもない」
「そうかい」
「あとね、いちばん小さいのが、きのう置き場の袋の上に乗ってたの。てっぺんまで登ったの。降りられなくなって、鳴いてた」
話はそっちへ移って、遠ざかっていった。
五年間、一度も止めなかった者がいる。
二度、止めた俺がいる。
俺は板を抱え直して、石段を上がった。上がりきってから、もう一度、井戸端のほうを見た。文乃はまだそこにいて、女の一人と何か話していた。話しながら、紙は抱えたままだった。
夜、文乃はいつものように紙を開いていた。
灯りを引き寄せて、今日のぶんを書いている。開いたところに、桶の数が並んでいるのが見えた。上の段の三軒。北のはずれ。朝と、夕。
俺は竈に薪を一本足した。
「……ずっと、見てたんだな」
文乃は書く手を止めた。こちらは見なかった。
「……そうよ」
それから、また書いた。
俺は灯りの油を継ぎ足して、芯を少し出した。明るくなったぶん、紙の字が小さいのがよく分かった。行がまっすぐで、数字の頭がそろっている。
文乃は書きおわって、紙を膝の上でそろえた。
「祭の日が決まったら、教えて」
「ああ」
今日は、訊かれた。
元の世界でも、私は同じことを言っていた。この子はほかの子と違う、と。そのたびに、どこが違うのかと訊かれた。あれも問いの形はしていたけれど、答えられないことを確かめるための問いだったような気がする。答えられないと、話はそこで終わった。終わらせたのは私ではなかったし、私でもあった。
今日のは、終わらなかった。私が答えたら、その先が決まっていった。桶の数と、朝と夕と、誰が提げて上がるか。私の言ったことを使って、人が動いた。
紙は開かなかった。開かなくても済んだ。中を見せなくても、答えだけなら渡せるのだと思う。あの子のことは、まだ何も言っていない。それでいいような気がしている。
訊かれるというのは、こういうことなのかもしれない。
三日たった。
村長が石段の下で指を折っていた。まわりに人が集まっている。
「霜が来る前だ。来てからでは、夜に外へ出られん。人が集まらん祭は、やっても仕方がない」
「六日後だ」
それで決まった。
女たちがその場で数えはじめた。粉がどれだけ要るか、火をいくつ焚くか、誰が何を持ってくるか。数えながら、二人が井戸端のほうへ歩いていった。
「文乃さんに訊いてからにしよう」
この三日で、その言い方を何度か聞いた。
娘は、今年は寝ないと言っている。去年もおととしも途中で寝たそうだが、今年は寝ないらしい。
六日後に、祭がある。




