雨の夜、村がはじめて娘を頼りに来た
「つむぎちゃん、いるかい」
坂の下から、もう一度声がした。
「います」
返すと、雨の向こうで人影が動いた。登ってくる足の運びが重い。道は水を含んでいて、踏むたびに沈む音がした。
庇の下まで来て、その人は雨具の縁から水を垂らしたまま立った。ヨナスだった。
「文乃、つむぎを中へ入れてくれ」
娘は桶の前にしゃがんだまま、こちらを見ていた。髪の先から水が落ちている。
「ほら、つむぎ。拭くから」
文乃が娘の背を押して、戸の内へ入れた。娘は入りぎわに一度振り返って、それから中で何か喋りはじめた。
ヨナスは、戸が閉まるまで待っていた。
「種麦の置き場に、水が入った」
「屋根ですか」
「北の隅だ。垂木が一本抜けてた。藁の薄くなってるところへ、これだけ降った」
雨は昼から強くなっていた。
「気づいたときには、下の袋まで来てた」
「濡れたのは、どのくらいですか」
「全部だ」
ヨナスは雨具の水を払わなかった。払っても同じだからだろう。
「乾かすには風がいる。この降りじゃ、明日も明後日も無理だ。そのあいだに、傷む」
そこで少し黙った。
「つむぎに、頼まれてくれ」
俺は戸のほうを見た。中で娘の声が続いている。
「俺から言うのは、違う気がした」
ヨナスは庇の下で帽子を取った。取ってから雨だと気づいて、また被った。
「……分かりました」
俺は土間へ戻って、雨具を取った。道具袋も肩にかけた。文乃が布を持ったまま、こちらを見ていた。
「先に運ぶ。運び終わってから、つむぎを呼ぶ」
「……寝かせておいて、いいのね」
「ああ」
布の下から娘が顔を出して、行く、と言った。行かなくていい、と俺が言った。行く、ともう一度言った。文乃が肩を押さえた。
置き場は、井戸から石段を二つ下りたところにある。
石を積んだ土台の上に柱を立てて、屋根を葺いただけの小屋だ。壁は無い。来年蒔く種だけを、家ごとに分けずにここへまとめて置いてある。
北の隅の下に、水の筋ができていた。手を入れると、袋の底が冷たい。
男が四人と、女が二人。夜で、人が少ない。
「どこへ運ぶのがいいですか」
俺が訊くと、集まっていた者たちが顔を見合わせた。
「屋根の新しいところだな」
村長が言った。
「葺いてすぐの厚い藁が、いちばん弾く。危ないのは、痩せはじめた去年のだ」
じゃああんたの家だ、と誰かが言った。
建てて数ヶ月の屋根は、村で俺の家しかない。
「使ってください」
袋は十二あった。乾いていれば一人で担げる重さだが、水を吸ったものは肩が沈んだ。石段は雨で滑る。二人で一つずつ運んだ。
三つ目を担いだとき、ヨナスが向かいで縄をつかんだ。
「あの屋根は、俺が葺いた」
俺は袋の端を持ち上げた。
「漏るわけがないだろう」
言い方が、いつものそれだった。返事を考えているうちに、袋は俺の肩まで来ていた。
村長が灯りを提げて、割った板を屋根のように上へかざしていた。板の下だけが乾いていて、村長は上から下まで濡れている。
「村長、あんたが濡れてる」
女の一人が言った。
「灯りが消えたら、何も運べん」
言ったほうが黙った。
石段を四度往復した。運びながら、村長が種のことを話した。家ごとに持たせると、食う年に食ってしまう。食ってしまえば、春に蒔くものが無い。だからひとところに置いて、蒔く日に分けるのだと。
土間の半分が袋で埋まって、文乃が寝床の荷を隅へ寄せた。最後の一つを下ろしたとき、雨の音が屋根で変わった。俺の家の屋根は麦藁を厚く重ねてある。落ちる音が、置き場のそれより低い。
運び終えてから、文乃が隣へ娘を呼びに行った。
戻ってきた娘は、寝間着の上に上着を着せられて、靴を左右あべこべに履いていた。目は半分しか開いていない。
「おはよう」
「……夜だ」
「あ、そうだ」
娘は土間の袋を見た。それから、袋の数だけ首を動かした。
ヨナスが板の間の縁のところで膝をついた。娘と同じ高さになった。
「つむぎ。これを、頼まれてくれるか」
「なあに」
「濡れた。乾かすのに二日も三日もかかる。そのあいだに悪くなる」
娘は袋にさわった。指を離して、そのにおいを嗅いだ。
「いいよ。それ、いつもやってるやつだ」
娘はいちばん手前の袋の前にしゃがんで、手のひらをかざした。
音はしない。光も出ない。手が袋の上で止まって、しばらくして、下りる。
「これ、おわり」
次の袋へ動く。しゃがんで、かざして、下ろす。一つにかける間は、水を出すときよりずっと短い。数えていられるほどの長さもない。
誰も喋らなかった。
「うちの婆さんに、二つやってもらった」
男の一人が、小さい声で言った。
「三つ目は、もう出なかった」
娘は八つ目の袋のところにいた。
「あのね、この袋、においがちがう。うちのとちがうの。うちのは、もっと、こう、あまい。ここのは雨のにおいがする。雨のにおいって、ほんとうは土のにおいなんだって、おばさんが言ってた」
「……そうかもしれん」
「そうだよ」
娘は九つ目へ動いた。膝のところが土でざらざらになっている。
十二の袋が終わった。
「ぜんぶ?」
「ぜんぶだ」
娘は立ち上がって、大きく息を吐いた。それから、また目をこすった。
「……助かった」
ヨナスが言った。
村長が言い、女たちが言った。同じ言葉が、少しずつ違う声で続いた。娘は聞きながら、上着の袖を引っぱっていた。袖が長い。文乃のものだった。
「もう寝ましょう」
文乃が娘の肩に手を置いた。娘は歩きながら、まだ喋っていた。
文乃は最後の袋のところに立って、娘の手を見ていた。
朝、雨は上がっていた。
戸を開けると、腕の外側が冷えた。息が白くなるほどではない。それでも、昨日までの空気ではなかった。
筵を出して、袋を開けて、種を薄く広げた。日が出ると、上の面から乾いていく。半分乾いたところで手でかき混ぜて、下の面を上にする。女たちがそれをやった。
俺は置き場の屋根に上がった。北の隅の垂木は、根元から腐って抜けていた。両側の二本も、指で押すと沈む。
「三本替えないと、また同じところから入ります」
「今日できるか」
「藁が要ります。刈ったのが屋根の下にあるでしょう」
「ある」
村長は俺の顔を見て、それから空を見た。
「種が生きてれば、来年がある」
そう言って、石段を下りていった。
昼前に娘が来た。桶を提げてきて、筵の脇へ置いた。
「にわとり、まだ屋根の下にいるんだよ。もう降ってないのに。いちばん小さいのだけ」
女たちが笑った。
「あれは足が汚れるのが嫌なんだよ」
「そう。わたしもそう思う」
娘は筵の種を指で掻き回して、手についたのを吹いて落とした。
「つむぎちゃん、ゆうべはありがとうね」
「うん」
娘は返事をして、そのまま桶を提げて坂を下りていった。あとのことは、もう頭に無いらしい。
風が出た。筵の上の種が、乾いた音を立てはじめた。
俺は屋根の上から村の屋根を順に見ていった。葺き替えの要るのが三つ。壁の下が痩せているのが二つ。冬までに、と思って、そこで手が止まった。
坂の下から娘の名を呼ぶ声がした。上の段からも聞こえた。昨日までは、こんなに聞こえなかった。呼んでいるのは、礼を言う声だ。
麦は刈られて、井戸は満ちた。畑には次に蒔くものが要る。その種はいま、俺の家の土間から出て、日に当たっている。
秋が来る。今年はじめて、この村の秋が来る。




