文乃が正しかったことを、俺はここで初めて見た
「これ、見てくれる?」
娘が帰って、戸を閉めたところだった。
文乃が俺の前に紙の束を置いて、灯りをこちらへ寄せた。それから少し下がって座り、膝の上で手を組んだ。
見せてくれと言ったことはない。見せられたこともない。
俺は表紙をめくった。一枚目から、数字だった。
「名前は、書いてないんだな」
「そこ、まだ分からない人がいるから」
名前のかわりに、その人のことが短く書いてある。井戸の東の家。桶を二つ提げてくる人。石段の下の、頭に赤い布を巻いた人。訊いたことがないのだろう。
その下に、数がある。朝に一杯。夕方に一杯。
さらに下に、二杯目の記録があった。半分。半分より少し下。三分の一。日によって前後しているが、どれも一杯には届いていない。
もう一つ、列がある。出はじめてから水が細くなるまでの長さだ。文乃はそれを、数える言葉で書いていた。十まで数えるあいだ。八つ。七つ。
「桶の大きさは、揃えてないのか」
「大きいのと小さいのに、印をつけてあるの」
右の端に、小さい丸と三角が並んでいた。
ページをめくった。同じ形の記録が、人の数だけ続いていく。書き足したところは前の行の下に、同じ幅で入っている。
工程表を読むのと同じ読み方をしていた。行を上から下へ見て、同じ列を横に比べて、最後に足す。本社に上がってくる紙を、そうやって読んできた。
どの列も、幅がそろっている。多い人と少ない人はいる。それでも、その差は桶ひとつの中に収まっていた。
「……最後のところ」
文乃が言った。俺は最後のページを開いた。そこだけ、書き方が違った。
日付ごとに、桶の数が書いてある。二十。二十二。三十を超えた日がある。
その横に、同じ字が並んでいた。
止まらず。止まらず。止まらず。
「書くことが無くなって、同じことを書いてるの」
二杯目の列が無い。この子には、二杯目という区切りが無いからだ。
俺は前のページへ戻って、また最後まで来た。足す癖で足していた。村の人のぶんを全部足しても、最後のページの一日に届かない。
届かない、という言い方も正しくない。桁が違う。
「これは」
言いかけて、続きが出てこなかった。
「同じ紙に書いたのが、そもそも間違いだったの」
文乃は膝に手を置いたまま言った。
「並べれば分かると思って、並べたのだけど。並べても、比べられなかった」
声はいつもと同じ高さだった。低くも高くもない。
「村の人は、止まるの」
俺は顔を上げた。
「井戸端で水を出す人は、みんな測った。朝に一杯、夕方に一杯。二杯目は半分で細くなって、途切れる。多い人も少ない人もいる。でも、みんな止まる。同じところで止まる」
「あの子は、止まらないの」
文乃は紙の束の端に指を置いた。
「桶が満ちるまでの速さは、あの子も同じ。速くはないの。村の人と、同じくらい。違うのは、そこじゃない」
「……長さか」
「長さ。いつまでも、同じ勢いのまま」
俺は最後のページの、二十という数字を見ていた。
「あの日、私は二十まで数えた。二十でやめたのは、私のほう。あの子は手を下ろさなかった」
「次の日も数えた。その次の日も。三度やって三度とも同じなら、たまたまじゃない」
「疲れもしないの。翌朝、いつもの時間に来て、いつもの順で水を出して、火を入れる」
昔、文乃は同じことを、もっと小さい声で言っていた。
『教わったとおりにはやらないの。それで、ちゃんとできちゃうの』
あのときは語尾が上がって、訊いているように聞こえた。
いまのは、訊いていない。
「水だけじゃないの。火も、保つほうも、同じ。私が見ているあいだ、一度も途切れたことがない」
「……それも書いてあるのか」
「後ろのほうに」
「あれは、一日にどれだけ出せるんだ」
「分からない」
文乃はそこで一度、言葉を切った。
「上を見たことがないから」
紙の束を閉じて、角を膝の上でそろえた。湯呑みに手を伸ばして、持ち上げて、飲まずに置いた。
「村の人には、言うのか」
「言わない」
間が無かった。
「なぜだ」
「あの子は、自分が普通じゃないことを知らない」
文乃は俺を見た。
「知らないままで、いま、うまくいってる」
俺は紙の束を見ていた。字が小さい。行がまっすぐで、数字の頭がそろっている。
文乃は毎晩これを書いていた。娘が帰ったあと、灯りの下で。ページが増えていくのを、俺は横で見ていた。
村へ着いた日の夜、文乃は娘の手を取って、ひっくり返して、指の腹を押していた。あの晩からの束だ。
途中に、一日だけ何も書いていないところがあった。日付があって、あとは白い。
「……ここは」
「書けなかったの」
桶が二十並んだ日だった。
俺はこの目でそれを見た。見たものが何だったのかは、この紙の上にある。
「……よく、見てあるな」
言ってから、足りないと思った。
「いや、そういうことじゃなくて。……その、よく見てある」
同じことを二回言った。
文乃が、ちょっと笑った。俺は紙の束の角を板の上でそろえてから返した。文乃は受け取って、膝の上でもう一度そろえた。
「そろえるのね」
「……癖だ」
文乃は束を胸のところで抱えて、しばらくそうしていた。それから灯りを落とす前にもう一度開いて、今日のぶんを書いた。
次の日の晩も、娘は飯を食ってから帰っていった。
戸口で、いつものように懐中電灯を押した。
「あれ」
もう一回押した。振ってみて、横にして、また押す。
「おとうさん、これ」
受け取って、尻の蓋を回して外した。電池を出して、端を袖でこすって、入れ直す。向きを変えて、もう一度こすった。
点かない。
荷の底から替えの電池を出した。二本ずつ入れ替えて、全部試した。ライターは荷の中にある。振ると、中で音がした。
どの電池も点かなかった。工具を出すまでもない。直すところが、どこにも無い。
「こわれちゃった?」
「……ああ。もう点かない」
「ふうん」
娘は懐中電灯を両手で持って、光の出るところを覗き込んだ。それからぱちんと押して、また覗いた。
「これ、持って帰っていい?」
「点かないぞ」
「うん」
娘は戸を開けた。外は暗い。
「気をつけて行けよ」
「二十歩だもん」
足音が遠ざかって、途中で聞こえなくなった。
しばらくして、向こうの戸口に灯りがついた。あの子が手を向けたからだ。
俺の手には、点かない電池が残っていた。持ってきたものが、一つ終わった。
戸を閉めて、電池を荷の底へ戻した。捨てる場所も思いつかなかった。
あの人に、あんな言い方をするつもりはなかった。紙を見せて、数を並べれば足りるはずだった。あとは読む人だから。並べたものを読める人だから。なのに、私のほうが先に言ってしまった。止まらない、と。
元の世界では、私の言うことに証拠が無かった。この子はほかの子と違うと言うたびに、どこが違うのかと訊かれて、答えられなかった。答えられないほうが悪いのだと、自分でも思っていた。
いまは、紙に書いてある。同じことが何度でも起きて、何度でも同じように書ける。
それでも、まだ誰にも言えていない。井戸端であの人たちに何と言えばいいのかが、分からない。この子は普通ではないと言うことは、この子を、いまいる場所から少しだけ外へ出すことなのかもしれない。
だから、言ったのは一度だけ。あの人にだけ。もう少し数えてからでも、遅くはないような気がする。
夜のうちに、屋根が鳴りはじめた。朝になっても降っていた。
井戸の石組みは上から下まで濡れて、乾いた線がどこにあったのか分からなくなっていた。
道は水を含んで、歩くと足の裏が沈む。桶を伏せていた家が、それを起こして外へ出していた。樽の蓋も開いている。
「おとうさん、雨って、いつまで降るの」
「……分からん」
「じゃあ、出しとくね」
娘はうちの前の桶にしゃがんで、手のひらを向けた。
「今日はいい。放っておいても溜まる」
「でも、待つでしょ」
娘は手を下ろさなかった。
「雨のは、いっぱいになるまで待つもん。こっちのほうが早いよ。それに、外なら、こぼれてもいいでしょ」
髪が濡れて、頬に貼りついている。本人は気にしていない。
桶の底に水が落ちて、はじめは高く鳴って、だんだん低くなった。雨の音のほうが大きいのに、その音だけよく聞こえた。
畑の土が黒くなっていく。麦はもう刈ってある。この雨は今年の麦には間に合わなかった。井戸には間に合う。
俺が掘った穴の底には、まだ岩がある。それでも、水は上から来る。
坂の下から、名前を呼ぶ声がした。
「つむぎちゃん、いるかい」
娘が顔を上げた。俺は理由を訊かなかった。
雨がやまないうちに、村の誰かがもう、つむぎを呼びに来ていた。




