同窓会
どんより重い朝。
晴れていたとしても、周囲の竹藪に阻まれて、曇りの日のような薄暗さだ。
悪夢は見なかったと思う。
だけど、頭も身体も鎖が絡みついたように重い。
「おはよう」
居間でテレビを見ている母に挨拶する。
「おはよう、夕べは気分悪かったって、大丈夫ね?」
「うん、ちょっと身体重いかな…」
食欲も無いので、買っておいたトマトジュースを冷蔵庫から出す。
コップへドロっと流れ出る濃い赤。
── ブシャ、ベシャ
頭の中で記憶の片隅から響いてくる。
何かが迫ってくる。
不快な気持ち、不安な気持ちが湧いてきそうなので、慌てて頭を振って追い払う。
トマトジュースをぐっと飲み干す。
鉄臭い気がして、軽くむせてしまった。
── 気分転換でもしなきゃね
「お母さん、ちょっと散歩してくるけん」
「うん、行ってこんね。あ、中村さんが帰っとるなら、遊びにおいでってよ」
近所の中村さん。
近所といっても五分以上かかるのだが。
田舎の良い所でもあり、悪い所でもあるのだが、近所の人たちからのふれあいと捉えるのか?
それとも、干渉と捉えるのか?
小学生の頃などは、普通に近所の人にみかんをもらったり、暑い日は麦茶を出してもらったりして、東京では考えられないだろう。
タイミングがあれば行ってみよう。
天気が良い日なのだが、鬱蒼とした竹藪が覆い被さり、薄暗さがどうしても気になる。
東京での十年は、驚くほど環境への体感を変えたのだ。
あてもなく歩いていると、いつのまにか開けたところに出た。
── あ、ここは…
少し先に、薄汚れてひびの入った茶碗がポツンと転がっている。
これは、昔詩織が猫の餌やりに使っていた、キャラクターものの茶碗だった。
懐かしさと、恐れ…相反する感情が湧き上がってくる。
そっと茶碗に触れようと、指を伸ばしたときだった。
── ニャー
どこかで、猫の鳴き声がしたと思った。
立ち上がり、声のした方へ振り返る。
── ひぃっ
思わず詩織が悲鳴を上げる。
腰の曲がった皺くちゃの老婆が、憎悪とも嫌悪とも取れる表情で詩織を睨みつける。
「あんねこはどぎゃんしたかって」
「え、なんですか?」
久しぶりに聞く年寄りの方言に、呪文のような違和感を覚え戸惑う詩織。
「ぬしんとこさんようけおったやろが、ねこばどきゃんしたかって」
あまりの剣幕に、詩織は後ずさる。
もちろん、この老婆に面識はなかった。
── ズズズ
老婆がすり足で近寄ってくる。
異様な不気味さに、詩織は駆け出していた。
家に帰り着くと、母に老婆の事を尋ねる。
「だいやろね? ここいらは、まだ焚き木使う人もおるけん、拾いにきたっちゃなかね?」
母親は軽く答えるが、一瞬だけ忌々しいとでもいうような、そんな目をしていたように思う。
「あん…こ…び…」
「え?おかあさん、何?」
無表情となって、テレビの方を見ているが、何も見ていないのは確実だ。
ただ、何を囁いているのか、ところどころしか聞こえない。
母はそのまま無機質な感じで詩織を見る。
生気のない顔、だらんとした頰。
「ねえ、お母さん!?」
だらんと、よだれが垂れそうになる美江。
そこで慌てて我に帰る。
「あーごめんて、考えごとしよった」
「本当に大丈夫?」
美江は立ち上がり、台所へ向かいながら言った。
「皿うどんにすっけん、食べたかやろ?」
詩織の好物であった皿うどん。
だが、あまり食べたいとも思えなくなっていた。
「うん、皿うどん久しぶり…」
気のない返信を返す詩織。
── フ…フフン…フゥ
皿うどんの支度をしながら、美江がハミングをしている。
詩織は鳥肌が立つのを感じ、心の奥底から不安が滲み出てきたように感じた。
この日は何もする気も起きず、部屋でスマホをいじって時間を潰した。
── 次の日
テトラポッドに座り、足先で海を感じる。
相変わらず肌をジリジリと刺す太陽と、濃い藍色の海がどこまでも広がっている。
たっぷり塗った日焼け止めも、あまり効果が無いかもしれない。
すぐ下に目を向けると、沖縄のようなエメラルドグリーンとは行かないが、澄んだ海には色とりどりの魚が見える。
昔はここでよく泳いだし、この色とりどりの魚も直に見た事もある。
ベラという、この辺ではありふれた魚。
白黒のシンプルなものから、エメラルドグリーンに花火を塗したような、熱帯感あるパステル調、黒に赤のワンポイントなど、バリエーション豊かだ。
改めて見ると、なんて贅沢な環境なんだろう?
東京にいるから、尚更そういう気持ちになるのか。
うちから二十分近く歩いてここまで来る。
昔はそれが当然だった。
ここのところ鬱屈としていたので、久しぶりに開放感を味わっていた。
子供の頃に帰ったように、魚を見て心が躍り、飛び込んでみたくなる。
今日は夕方まで海にいたいというと、美江がお弁当を作ってくれた。
あの家、いやあの周囲にいることが、かなり精神的な負担に感じていた。
とはいえ、このままでは熱中症になりそうなので、防波堤の影へ涼みに行く。
良さそうな影を見つけ、レジャーシートを敷く。
下は硬いコンクリートだが、ひんやりとした冷たさが心地よい。
素晴らしい景色と、開放感からくる安堵だろうか、ウトウトしてしまった。
── フ…フフン…フゥ
遠くからあのハミングが聞こえる。
『ねえ、詩織ちゃん。アナタは若くて、黒い髪の毛も、白い素肌も、瑞々しくていいわねぇ』
── フフン…フゥ…フフン
『詩織ちゃん、知ってる? 猫ってね、ここ…』
ヤダヤダヤダヤダヤダ、聞きたく無い。
もういいよ、叔母さん、もう良いんだって!
── ビクッ
詩織が跳ね起きる。
辺りはすっかりオレンジに染まっている。
── やだ、どれだけ寝てたのよ
お昼も食べず、ずっと寝ていたらしい。
お弁当を開いてみると、真っ赤に染まっていた。
── ビシャ、ベシャ
真っ赤な雫に得体の知れない塊が…
一つ、二つ、三つ目はテーブルから落ちる。
やだ、いまは思い出したくない!
ダメだ、正気にならなきゃ!
頭を振って、お弁当を良く確認する。
むっと鼻をつく臭い。
保冷剤も熱くなっており、腐ってしまったようだ。
良く見ると、ナポリタンにケチャップがたくさん掛かっていた。
だから真っ赤なのだろう。
せっかく作ってくれたのに、悪いことしちゃったな…
あれ?
ナポリタンから何かを摘み上げる。
詩織の指の間には、白い毛が二本あった。
ヤダ、これ何の毛?
気持ち悪かった。
詩織には何の毛なのか、ある程度は予想はついていたが、考えたくもなかった。
── 同窓会
急いで家に戻り、出かける準備をする。
午前中だけで、鼻の頭も頬も腕も真っ赤になっていた。
日焼け止めもあまり役に立ってないようだ。
ヒリヒリするが、急いで着替えて軽くメイクをする。
顔が痛いので、最低限の身支度となるが仕方ない。
帰りはバスなんだよな。
あまり遅くならないようにしないと。
そんな事を思いながら、スマホのグループチャットを開く。
店の場所は…新地なんだ。
長崎の新地には、横浜ほどでは無いが中華街もあり、主要な交通手段であるバスターミナルもあり、コンパクトにまとまった感じのある町だ。
また、近くの浜町まで行けば、アーケード街もある。
どんな感じだったか?
自分の記憶を辿ってみるが、十年前の記憶は役に立ちそうもない。
とりあえず、行けば何とかなるでしょ。そんな軽い感じで同窓会へ向かった。
── 同窓会終わり
「浜崎さん、乗せて行こうか? 家は山ん中やったろ? あぶなかけん、送るばい」
酔った顔でふり向くと、平修司が車のキーをくるくると指で回している。
「え、車できとると?」
「仕事の都合で、仕事先から直接来たとけど、車やけんね。全然の飲んどらんとさ」
彼を見ると、先ほどまでの同窓会での話が思い出された。
最初は、あまり面白くもないと感じていたが、途中から参加の平井由美の登場で、一気に流れが変わった。
由美とは親友というほどではないが、ずっとクラスも同じで、なにをするにも一緒にいたんだ、と今更思い出した。
「詩織! あんた本当に久しぶりたい、やっと帰ったとね」
「うん、今回はなんとかね」
まだそれほど酔ってもおらず、あまり盛り上がってもいない。
「うわ、なんね詩織その言葉遣い、私東京の女性って事?」
「別にそんなつもりはないんだけど…」
そんな調子で始まったのだが、由美がどんどん飲んで、詩織にも勧めてくる。
そうこうしているうち、詩織もかなり飲んでいた。
「ごめん、仕事で遅れたぁ」
そこに平修司が入ってくる。
平を見たとたん、由美がニヤニヤしている。
「 詩織、あんた知っとうね? 昔さ、平くんあんたんこと好きやったって」
「え、ほんと? うち全然しらんかった!」
詩織もかなり酔ってきており、言葉も昔に戻ったようだ。
ちらりと詩織に視線を送る平は、ちょっと照れているようにも見えた。
「詩織、平くんまだ詩織が好きっちゃなかと?」
「そんな知らんよ」
そんな調子で、昔のよくそんなこと覚えていたな、という話題を振る由美が、全然飲み足りないと騒ぐ。
次に行くという由美をなんとか見送って、やれやれと帰ろうとしているところだった。
送ってくれるという平は、ちょっと緊張しているようにも見える。
詩織もあの鬱蒼とした竹藪の道を考えると、ちょっとぞっとした。
「え、でも悪かやろ。明日も仕事じゃなか?」
「別によかって、遠慮せんでも。送っても遠回りでもなかし」
新地から車であれば、家までは三十分くらいで着く。
運転しながら、東京でのことなど、他愛のないことを話していた。
そういえば、平とは挨拶程度で、それ以外話した記憶はない。
そうこうしていると、鬱蒼とした竹藪に入った。夜はさらに不気味さを増す。
しばらくして、ようやく家の灯りが見えてきた。
「平くん、ほんと助かった。ありがとう」
「全然よかよ。あのね…」
ちょっと恥ずかしいそうに平が逡巡している。
「ん、なんね?」
「いま同窓会のグループチャットしよるやろ、で、浜崎さんに個別でもチャット送ってもよかかな?」
ここまで言われると、さすがに詩織も意識する。
「ん、別によかけど…」
「ほんと? よっしゃ!」
ガッツポーズをする平に、そんなことで嬉しいのか? と詩織が笑う。
「あ、いつ東京帰ると?」
「明後日帰る」
少し残念そうな平だが、気持ちを切り替えたようだ。
「そっか、飛行機やろ? 良かったら空港まで送るよ」
「え、それこそ悪かやろ。それにまだ帰らんけど?」
そこで二人してクスクス笑う。
「まあ、わかったよ。とにかく、チャットするけん。無視せんでね」
「うん、わかった。気い付けて帰ってね」
車を降り平がUターンしてくるのを見守る。
詩織の横にきて窓を開けて、また、と手を振る平。
「またね」
詩織も手を振る。
赤いテールランプが少しずつ小さくなっていく。
そして闇に溶け込んで見えなくなった。
クルリと家に向き直ったそのときだった。
── ベシャッ、ブシャ
詩織の背後から聞こえてくる。
水の入った袋が落ちるようなそんな音。
── ドサッ
少しずつ近づいてきている。
詩織の身体中の毛穴が開き、鳥肌が全身を駆け巡る。
恐る恐る振り返った先には……
白いワンピースの後ろ姿が見えた。
そこで詩織の記憶が途切れた。




