薬の聖女をはかりなおす_4
青石の光が消えた。
王立清浄区画の一室で、ビアトリクスはしばらく無言のまま、手元の通信具を見つめていた。
セラフィーナは、行くと言い切った。
ああなった彼女は迷わない。短い付き合いだがそれを知っている。
「……ばか」
ビアトリクスは思わず呟いた。その声に、先ほどまでの凛々しさがない。
天秤が剣を置いていった。
――ならば剣は、自分で戻るしかない。
机上には、聖女エマの予備審問記録。
そして封じられた霊薬の小瓶。
「止めるなよ、サフィール」
壁際に控えていた侍女が、静かに頭を下げる。
「第三審問室へ。聖女エマに面会を伝えてくれ」
「王宮への許可無くですか?」
「諸々、後で叱れ」
ふっ、と息を吐くように。サフィールの表情筋が反応した。
「承知しました」
サフィールが姿を消してから、ビアトリクスは病除けの白いヴェールを外した。
清浄区画の外へ出る時でさえ手放さないそれを、机上へ置く。
ほどなくして、エマが連れてこられた。
白い前掛けの裾を握りしめ、目元はまだ赤い。怯えきった顔をしていた。
「聖女エマ」
ビアトリクスは、真正面から彼女を見た。
「これは……職権乱用だ。だから断っていい」
「……何ですか?」
「私用の霊薬を作ってほしい」
返事は、思いのほか早かった。
「だめです! だって私の薬で事故になったんでしょう? また、誰かが苦しんだら、」
「そうはさせない」
ビアトリクスはきっぱりと言った。
「誰にどれだけ使うかを、最初から決める。効用も失敗も承知の上で、試してみる」
「……それ、人体実験じゃ、」
「その為の最初の記録を付けなさい。薬にするために」
エマの目が揺れた。
「私は君を信じる。君の異能は祈りであると、天秤が……セラフィーナが言った。」
「どうして、そこまで……」
ビアトリクスは微笑んだ。
この檻に入る前、剣に生きると決めた日に、心に決めた言葉があるからだ。
「鞘に入ったままでは価値が無いからだ。剣は、誰かを守る為にあるのだから」
エマは、そっと両手を胸の前で握った。
震える指の間に、淡い金と緑の光が滲む。
緑色の精霊。癒しと大地の精霊。そのささやく声を、ビアトリクスは聞いた。
遠い日に聞いた、子守歌のようだった。
ビアトリクスは、卓に置かれた紙に走り書きを残した。
――対象、ビアトリクス・エル・アストレア。
――目的、清浄区画外での短時間活動補助。
――用量、三滴。追加投与なし。
――用途、王立図書館特務資料室の剣としての職務遂行。
エマから小瓶を受け取った瞬間、ビアトリクスは小瓶から三滴だけ舌に落とした。
その記録紙と瓶の残りを、サフィールへ押しやって立ち上がる。
「後は頼む」
その目が揺れる事は無かった。
***
グランヴェル邸は、王都北区の高台にあった。
王家の血を引く者を護るにふさわしい佇まいである。塀は高く、門扉は厚く、庭は広い。
刈り込まれた柘植の奥で、白い石柱の邸が沈黙している。
セラフィーナは、護衛のイアンすらも門前で払った。
たった一人でその門をくぐる。
通されたのは、奥庭に面した小さな温室だった。
薔薇はない。
代わりに、白い薬草の花が鉢いっぱいに並べられている。香りは淡く、どこか清浄区画の空気に似ていた。
その中央で、一人の老婦人が茶を飲んでいた。
白銀の髪を結い上げ、深い青の衣をまとっている。
背筋はまっすぐ伸び、握られた扇の柄に、王家の紋が金で彫られていた。
老いてなお、一振りの儀礼剣のように美しい人だ。
「ごきげんよう、エレオノーラ様」
セラフィーナは、淑女の礼をした。
老婦人の声は、驚くほど柔らかかった。
「本当に、変わらないのね。フィフィ」
セラフィーナは微笑んだ。
「あなたは、お変わりになりましたわ」
「ええ。老いたわ」
エレオノーラ・リア・グランヴェル公爵夫人。
現王の妹。商会ギルド前会長の妻。
そしてかつて、王立図書館特務資料室において、黄金の剣と呼ばれた二代目特務剣士。
「子を持ち、孫を持ち、夫を看取り、家を守った。変わらない方が不自然ね」
「……」
「あなた、まだ「天秤の妖精」なのね」
「ええ」
「かわいそうに」
セラフィーナの笑みは崩れなかった。
ただ、指先だけが、扇の骨をなぞる。
「聖女の霊薬の事でしょう? お伺いしましょう」
「流通に出たはずの数が合いません。偽物と希釈品が市場に残り、少なくない数の本物がグランヴェル家へ集められている」
「ご存じでしょう。可愛い孫は臥せっているの。生まれてすぐに。もう何年もよ」
「存じております」
「では、責める?」
セラフィーナの指が震えた。
「……あなたらしいわ。本当は誰よりも優しい貴女が、調停役なんて。似合わないと言ったでしょうに」
温室の空気が、冷えた。
「フィフィ。天秤の片皿に自分の血が載った時、人は公平ではいられないのよ」
「そのために、他の皿を払う事が是であると?」
「綺麗事ね」
「ええ。綺麗事です」
セラフィーナは震えながらも、きっぱりと言い放つ。
「けれど綺麗事を諦め、護るべきを偏らせる力であれば、野放しにはできません」
エレオノーラの目が細くなった。
老婦人の瞳に、黄金の剣と呼ばれた淑女の残光がよみがえる。
「今更、ひとりで何をしに来たの?」
「話し合いに参りました」
セラフィーナは扇を閉じた。
「聖女様の祈り。薬師の恐れ。商会の道。教会の疲弊。民の願い。そして、あなたの孫君の命。――私は、すべてを同じ天秤に載せたく存じます」
「貴女はそればかりね……。それで何を失ったか、もう忘れたの?」
「ひとりを! ただ一人を救う為の対価に、世の安寧を差し出してはいけないの、リーラ!」
「問答にすらすらならないわ!」
エレオノーラの口元は笑っていた。しかし、どこか痛々しく見えた。
「……本当に、ほんとうに変わらない。腹立たしいほどに」
「……知っているわ。人は変わります。本当は……変われない方が可笑しいのよ」
「そうね。置いていかれるより、ずっと幸せよね?」
セラフィーナの唇が、ほんのわずかに開く。
けれど、言葉は出なかった。
エレオノーラは、それを見逃さない。
「私は違う。私は、守るものを得たの。孫の命が助かるのなら、王家の名も、商会の力も。すべてを使うわ」
「……リーラ。せっかくの奇跡を、ひとりで奪うつもりなの?」
「その罪すら、私が飲み込みましょう」
温室の奥で、薄い布の揺れる音がした。
寝椅子がある。
白い掛布の下で、小さな子どもが眠っていた。細い呼吸が、不規則に聞こえる。
セラフィーナは、その子を見た。
翡翠の目が、淡く光る。
病が深い。もともとの命の光がまるで弱い。心の臓に、生まれつきの不調がある。
だが。――霊薬を使い続ければ、助かる可能性は見えてくるかもしれない。
「ですが、あなたのその強権によって、どれだけの方に混乱があったか。判らないのですか?」
「教会の、信者の列ね。知っているわ」
エレオノーラは即答した。
迷わない彼女の答えに覚悟を見出したセラフィーナは、静かに目を伏せた。
「黄金の剣ともあろう方が」
「古い呼び名よ」
エレオノーラの手が、扇の柄を撫でる。
次の瞬間、扇の骨が抜かれた。
扇の中に仕込まれていたのは、薄く、しなるような直刃だ。
それが2本。
エレオノーラが自身の魔力を込めると、強くかがやき、黄金色に刀身が変わる。
かつて「黄金の双剣」と呼ばれた、優雅で、護る為の剣。
セラフィーナは、痛みとともに思い出す。
まだお互いに若かった。何にも縛られることはないと思っていた。
諸国の外遊で、罠と判った舞踏会にふたりで飛び込み、無茶ばかりする自分を護ってくれた一夜が、確かにあったはずなのに。
「退きなさい、フィフィ。あなたに剣を向けたくはなかった」
「もう、向いておりましてよ。リーラ?」
「脅しよ」
「ええ、ですから。なおさら退けません」
剣先が、セラフィーナの喉元へ近づく。
かつて自分の隣にあった剣。
それが今、自分へ向いている――。
セラフィーナの指が、下がった。
口元を隠していた扇を握る手が、はじめて役目を忘れたように傾いて、だらりと下がる。
そこに、年相応の少女の、むき出しの悲しみがあった。
その時だった。
硝子の扉が、内側へ砕けるように開いた。
白い影が、風のように温室へ滑り込む。
銀灰の髪。
冬空の青い瞳。
その胸元で、十字剣のペンダントが揺れる。
ビアトリクス・エル・アストレアが、セラフィーナと剣先の間に滑り込む。
寸前、エレオノーラの刃を、ビアトリクスの細剣が弾いた。
高く澄んだ金属音が響く。魔力を込めた金属だけが放つ音色だ。
「前任者殿」
ビアトリクスは、息を乱しながら言った。
「私怨の剣を向けるなら、私が受けよう」
「アストレア公爵嬢? 貴女、今のその身体で剣を振るうおつもり?」
「剣は身体で握るものではありません」
ビアトリクスの唇の端から、赤い血がひとすじ落ちた。
「使命で握るものです」
「ビーシュ!」
「叱責は後だ、フィフィ!」
ビアトリクスは、剣を握る手に力を込めた。
「私も、私の護りたいものを護る。それがあなたの言う「剣」だろう? グランヴェル公爵夫人」




