薬の聖女をはかりなおす_5
ビアトリクスの剣が、黄金の刃を押し返した。
だが劣勢は覆せない。
腕はもう震えはじめている。あと十分持つかどうか。
唇の端から落ちた血が、白い襟元を赤く汚した。
「退きなさいッ! 持たないわよ!」
「承知の上です」
ビアトリクスは、冬空の瞳で前任者を見据えた。
「剣が守るものを選び違えた時、次の剣が止める。役目です」
双剣の刀身が、かすかに軋む。
「綺麗事を言うのね。あなたも!」
「当然です」
ビアトリクスは短く息を吐いた。
「天秤が綺麗事を掲げるなら、剣は決して、それを折らせない」
セラフィーナの指が、力を失っていた扇が、ゆっくりと持ち上がる。
口元を守るように。
けれど、今度は隠れるためではなく、凛と立つために。
「……ありがとう、ビーシュ」
「礼は後で聞く」
「叱責もね?」
「それは遠慮したい。貴女のは長いから」
そして、翡翠の目をエレオノーラへ向ける。
「リーラ。あなたの孫君を、天秤から落とすつもりはございません」
「世迷言を!」
「奪いません。載せます」
セラフィーナは一歩進んだ。
ビアトリクスの肩越しに、まっすぐ前代の剣を見る。
「グランヴェル家が集めた十本の霊薬は、王立審問院、薬師ギルド、教会施救院の共同管理下に置きます」
「没収でしょう?」
エレオノーラの眉が挑発的に動く。
「孫君への投与を優先します。ただし、薬師の見立てと記録を付けます。量、症状、経過、副作用。すべてを残します。
貴方の孫君は、貴族の義務を身をもって示すのです。その身体を差し出すことで」
「ひどい提案ね! あの子を死なせるつもりッ?!」
セラフィーナの声は震えていなかった。
「施救院で同じ症状、同じ危険を持つ者を探します。聖女様の霊薬で救える病であるなら。そして孫君の献身と成果は、他の者の希望を切り開くのです」
今度はビアトリクスが答える。
「聖女は私の目の前で薬を作った。時間はかかるが、量産はできる。
だから次からは、薄めず、偽らず、隠さず。その使用の前後まで。すべて記録した上で広く頒布する」
エレオノーラは笑わなかった。
ただ、双剣を握る手が、ほんの少し下がる。
「商会は、認定印と価格と輸送経路を整えます。泥の道は潰す。薬師ギルドは投与と経過を見ます。教会を中心に施救を続けます。王立審問院は、責任の所在を記録します」
「……聖女は?」
「気になさっていたのね。もちろん罪人にはなりません」
セラフィーナは、はっきりと言った。
「ですが、もう自由に祈りを配ることも許しません。聖女エマ様は王宮保護の上で、薬師と教会の同席のもと、霊薬を作って頂きます」
「……道具にするのね。残酷だこと」
その時、ビアトリクスの胸元で、青い光が強く瞬いた。
『……あの!』
少女の声だった。
ビアトリクスが目を見開く。
「エマ?」
『サフィールさんに、繋いでもらいました。ごめんなさい。聞いてました』
エレオノーラの双剣が、目に見えて下がる。
『公爵夫人様。私、貴女のお孫さんを助けたいです』
「……あなたが聖女?」
『はい』
少しだけ間があった。
『私、こっちでいう「転生者」です。前にいた世界では、死ぬまでずっと病気でした。寝台から起きられない日ばかりだった。だからこっちに来て、精霊さんたちがお願いを聞いてくれた時、嬉しくて』
声が震える。
『苦しんでる人を見たら、治してあげたいって。それしか考えてませんでした』
温室の奥から、子どもの苦しそうな呼吸が聞こえた。
『でも……人の身体が耐えられないかもなんて、知らなかった。この力がこんな大事になるなんて判らなかった』
エマは一度、息を吸った。
『だから、貴女のお孫さん、助けたいです。でも今度は、私一人ではやりません』
エレオノーラの指が、双剣の柄の上で止まった。
『薬師さんにも、教会にも、いろんな人に手伝ってもらいます。どれくらい使ったか、どうなったか、良い事も悪い事も残します』
そして、少しだけ幼い声で言った。
『みんなで、ちゃんと助けたい。助けさせて下さい』
長い沈黙が落ちた。
「……道具にされても?」
『なりませんよ』
今度の返事は早かった。
『私が、そうしたいんです』
ビアトリクスが続けた。
「道具にはしない」
息は荒い。
それでも声は、鋭かった。
「責任を分ける。もうこれ以上、彼女ひとりに、救済も事故も背負わせない」
温室に沈黙が落ちた。
エレオノーラの老いた背中が、ほんのわずかに丸く見えた。
「……私は、あの子を助けたいだけなの」
「存じております」
「それでも罪?」
「無論ですわ」
セラフィーナは静かに言った。
「ですが、あなたの願いまで罪にするつもりはございません」
エレオノーラの唇が、かすかに震えた。
「腹立たしい天秤ね」
「知っての通り、昔からですわ」
黄金の双剣が、光を失った。
エレオノーラはそれを胸元に引き寄せ、深く息を吐いた。
「……調停を受け入れます。グランヴェル家は、霊薬十本を共同管理下に譲渡します。孫への投与記録も認める」
「感謝いたします」
「ただし」
老婦人の目に、最後の鋭さが戻る。
「あの子を見捨てる事があれば、私はもう一度剣を抜くわ」
「その時は」
ビアトリクスが血の滲む唇で笑った。
「私が、もう一度受けます」
言ってすぐ、ビアトリクスの膝が崩れた。
セラフィーナは慌ててその身体を受け止める。
細い身体は、驚くほど熱かった。
「ビーシュ!」
「薬効、記録してほしい……短時間活動補助、成功。副作用、喀血と発熱、倦怠感と、筋肉痛に関節痛……」
「今それを言いますの!?」
「これから要るだろう? 大事な事だ」
セラフィーナは泣きそうな顔で、けれど笑った。
「貴女って方は、ほんとうに……」
セラフィーナが言った。
「帰ったら、一時間の説教です」
「……それは困る」
温室の外で、人が駆ける音がした。
置いてきたはずのディアナとイアン、そして商会ギルドからの使いが、追いついてきたのだった。
***
数日後、聖女エマの霊薬は、王立審問院、教会施救院、薬師ギルド、商会ギルドの共同管理下に置かれた。
小瓶には認定印が押され、投与には薬師の厳命と監視が添えられた。
価格は固定され、輸送経路も帳簿に残された。
偽物と粗悪品は、商会ギルドが恐ろしい速さで潰していった。
エマはまだ泣き虫だった。
それでも今度は、自分から記録簿の前に座って、両手を重ねる。
最初の正式な投与記録には、グランヴェル家の孫君の名が記された。
その記録は、後に続く患者たちのための最初の一頁となった。
こうして前世からの聖女の祈りは、精霊の助けを借りて、奇跡として顕現しはじめた――。
裁決から3日後。
王立清浄区画の寝台で、ビアトリクスは書類の束を抱えたまま困惑していた。
セラフィーナはその横で、にこにこしながら、所狭しと茶器を並べている。
「ビーシュ。今日は簡素にいたしますが、身体が戻ったら豪勢にお茶会しましょうね」
「……清浄区画で茶会は出来ないよ」
「あら。では次は、清浄馬車ごと野外のお茶会なんてどうかしら?」
ビアトリクスは薄く目を開け、心底弱ったように顔をしかめた。
「やる事が大胆すぎる」
「それは、わたくしの台詞ですわ」
セラフィーナは菓子を取り分けながら笑った。
「けれど、奇跡を災厄にせずに済みました」
ビアトリクスはしばらく黙り、それから小さく息を吐いた。
「記録が増えるな。しかしこの件ならば、祝福と書くことが出来ようか」
「ええ」
セラフィーナがふわりと微笑む。翡翠の光が、静かに瞬く。
「私のこの眼が在るうちは、ずっとそう書いてくださいね?」
ーFINー




