薬の聖女をはかりなおす_3-2
「では以後、商会へ回る小瓶の見立てをお願いしても?」
「原液に近いものか、薄められたものか、混ぜ物ばかりの偽物か。それくらいなら、この場で見ます」
「そりゃ助かる」
ラウルが短く言った。
オルフェは、初めて少しだけ驚いたように彼を見た。
「助かる?」
「薬師の目が入るなら、偽物を潰す名分が立つ。商会ギルドは市場を守る。薬師は人の身体を守る。教会は祈りを守る。違うか?」
「……違いません」
「お互い様だ。仕事をしようや」
「ソーエイ殿、」
「謝罪なんぞいらんさ。ここからは時は金なり、だ」
セラフィーナは、ぽふりと分厚い帳簿を閉じた。
「では、王宮は秩序を担当いたしますわ。混ぜ物を含めた粗悪品のお話ですわね、ソーエイ様?」
セラフィーナが問うと、ラウルは警戒する獣のようにうなった。
「……出所は商会ギルドで洗っている。粗悪品は、客じゃなく市場を殺すからな」
ラウルは帳簿をもう一冊引き寄せ、数枚の紙をめくった。
「ただ、その前に妙なことがあってな」
「妙なこと?」
「施救院内で使われた分とは別に、教会の記録では、寄進返礼として外へ出た本物は全部で三十本だ」
ラウルは卓上の正規品を指で示す。
「貴族家へ渡った分。商会が仲介した分。薄められて売られた品も見積もった。通常の流通記録で追えるのは、二十本分だ」
「残り十本は?」
オルフェがすぐに問うた。
ラウルの指が、帳簿の端で止まった。
「……通常の流通記録には出てこない」
『通常の?』
ビアトリクスが、即座にその言葉を拾った。
「ああ。言葉通りだよ、書記官殿」
ラウルはそれ以上を語らず、別の頁を開く。
「それとは別に、本物の流通が細った直後から、薄めた品が急に増えた。その数日後には、香油と金粉で色だけを似せた偽物まで出回り始めている」
『待て』
通信具の向こうで、紙束を繰る音がした。
『教会から外へ出た本物は三十本。こちらの情報の流通経路で所在を確認できるのは、希釈された分を含めても二十本相当』
ビアトリクスの声が低くなる。
『そして十本が通常の流通記録から外れた直後から、本物の供給が細り、希釈品と偽物が増えた』
セラフィーナは、卓上の三本へ順に目を向けた。
本物。
引き伸ばされた祝福。
何も宿していない贋作。
どれも「同じ時期」に人の手を渡っている。数が足りないのに。
「……捻じれております」
『ああ。順序が逆だ』
その言葉が、刃のように帳簿の行間を切り分けてゆく。
『偽物が増えたから本物が足りなくなったのではない。先に本物が十本、通常の流通から外された。その空白へ、薄めた品と偽物が流れ込んだ。そうすれば辻褄が合う』
「本物が消えた穴を、偽物が埋めた……?」
オルフェが呆然とつぶやく。
「需要だけは消えなかったんだ」
ラウルが苦々しく答えた。
「奇跡を欲しがる者は減らない。なのに本物だけが足りなくなった。値が上がる。薄める奴が出る。それでも足りなきゃ、何も入ってない瓶まで売る奴が出る」
セラフィーナは、帳簿へ目を落とした。
「では、その十本だけが……道ならぬ道を通った可能性があるのですね?」
ラウルは答えなかった。
帳簿を閉じようとした、その時だった。
頁の下から、一枚だけ紙質の違う書付が覗く。
その書付を、ラウルの手が覆った。
隠すというより。
出すべきかどうかを、迷うような手つきだった。
『ソーエイ副長殿。ご存じでしょうが、』
ビアトリクスの声から、温度が消えた。
『提示されていない記録があり、それが本件に関係するのなら。審問院書記官として、その全ての提示を求めます』
ラウルはしばらく黙った。
「……分かってるよ」
弱ったように頭を掻く。
「ただな。書類の向こうにいるのは、帳簿の数字じゃない」
そして、伏せていた書付へ目を落とした。
「皆、気持ちは同じだ。助かりたいんだ」
その先を、ラウルは慎重に飲み込んだ。
「貴族だろうが平民だろうが、病人を前にすりゃ同じ顔をする。奇跡が本物だって分かれば、なおさらだ」
セラフィーナは何も言わず、待った。
「お嬢。この件は『奇跡』に値がついちまっただけの話だ。笑い話にしたい。悲劇にしたくない……」
「ええ」
セラフィーナの返事は、ひどく静かだった。
「だからこそ、誰か一人だけを悪者にして終えるつもりはございません」
ラウルが顔を上げる。
「けれど……ラウル。無かったことにはできないの。貴方の時と同じ」
しばらくして、ラウルは息を吐いた。
「……この名を公にするなら、扱いは慎重に頼む」
書付から手を離す。
そこには、通常の流通帳簿とは別に作られた譲渡記録があった。
王家の印章の変化紋と、商会ギルド前会長家の封。
小瓶十本の、一括譲渡覚書。
名は、エレオノーラ・リア・グランヴェル公爵夫人。
「グランヴェル公爵夫人。前会長の奥方だ」
ラウルは笑わなかった。
「現王陛下の妹君でもある。王妹エレオノーラ殿下」
部屋の空気が、一気に冷えた。
「王妹殿下が、先に押さえていたんですか……? そんなことが許されて……」
『……いや、さすがに横暴が過ぎる……しかし、』
ビアトリクスはそこまで言って、言葉を失った。
対してセラフィーナは、紙面の名をじっと見つめている。
「王妹殿下は、病の孫君のために霊薬を集めておられるのでしょう」
「そこまで見えるのか」
「いいえ」
セラフィーナはゆっくり首を振った。
「以前、ご本人から孫君の病について伺いましたから」
ラウルが目を伏せた。
部屋の外で、硬貨が盆に落ちる音がした。
乾いた、澄んだ音だった。
その中でセラフィーナは微笑んでいる。
ただその口元には、いつものような、誰かを安心させる温かみがない。
花の形をした、薄い硝子細工のようだった。
ディアナが一歩前に出た。
「お嬢様、何を考えていらっしゃいますか?」
セラフィーナは彼女を見なかった。
「イアン。馬車を」
扉の外に控えていたイアンが、丁寧に腰を折りながらも、彼女に追いすがる。
「どうか、お嬢様。屋敷から応援を呼びます。それまでお待ちを……」
「不要です」
言葉は丁寧だ。荒れてもいない。
しかし、ディアナの声の方が震えていた。
「……なりません。お一人で行くつもりであればお通しできません」
「ディアナ。ここにお残りなさい」
「できません!」
「貴女の意見を聞いているのではありません」
それは叱責ではなかった。主としての、有無を言わさぬ厳命だった。
耳飾りの青石が、淡く光る。
『待て、フィフィ。行くな』
ビアトリクスの呼吸が、わずかに早くなっていた。
セラフィーナは、ようやく目を伏せた。
「王妹殿下の名が出ました」
『……それは、』
「はい。貴女の前任の方です。そして私の、おともだち」
灰色の沈黙が落ちた。
『先代の剣。黄金の剣と呼ばれた、二代目特務剣士殿か』
「ええ」
『だが一人で行くな』
「いえ。これは、わたくしの用件です」
『違う。審問院の案件だ。剣を置いて行くな』
「いいえ。だからこそ、わたくしが行かなければなりません」
『……フィフィ』
「ビーシュ。回線を閉じます」
『待て! 切るな!』
「切ります」
青石の光が、静かに消えた。
セラフィーナは耳飾りを外すと、悔しそうに唇をかみしめるディアナにそれを預けた。
そして。いつもの声で事実だけを置く。
「馬車を。グランヴェル邸へ参ります」
そのまま彼女は、商会ギルドの応接室を後にした。
扉が閉じるまで、誰も動けなかった――。




