薬の聖女をはかりなおす_2
王立清浄区画に、窓はない。
正しくは、窓に見えるものならばある。
石枠に磨かれた硝子。外光を透かす紗。季節ごとに変化する香草の鉢。咲く花の色まで、王都の空と庭に合わせて設えている。
ここは幾重にも重ねられた結界の中。
毒、病、埃、虫、余分な魔力、精霊のざわめきまで滅している。
外の世界に満ちるあらゆるものを濾し取り、選び、削ぎ落とした、病的なまでに清潔な空間。
いわば、生かすための箱庭である。
王立審問院書記官兼、王立図書館特務資料室司書。
ビアトリクス・エル・アストレア公爵令嬢は、その檻の中で、今日も背筋を伸ばしていた。
長い銀灰の髪を、首筋でゆるく束ねている。
白い頬。冬空が持つ軽やかな青の瞳。冷ややかな美貌。象牙の彫刻のように細い指。
十九という年の瑞々しさはある。
だがその身体は、外の風ひとつにも慎重な許しを要した。
例えるならば、芯から凍った白薔薇。
美しさと脆さが、同じ花弁に同居している。
彼女の机上には、三つの記録と書類が開かれている。
ひとつ、教会施救院からの急報。
ふたつめ、受理を保留された薬師ギルドからの抗議書の束。これまでに二度、同じ趣旨の訴えがある。
みっつめ、過去百五十年における、異界由来とする霊薬事故の裁定記録。
古い裁定書の幾枚かには、前任の特務司書が残した署名も混じっている。
エレオノーラ・リア・グランヴェル。
ビアトリクスは、その名を一度だけ見て、すぐに別の紙を重ねた。
机の右には、小さな包みが開いている。
中は鉛の箱だ。金と緑の光を帯びた薬瓶が一本、木くずの中に埋もれていた。
聖女の霊薬。
幸い、修道医の適切な処置により、幼子は小康に落ち着いたそうだが。
混乱を招いた聖女は保護という名目で、今は審問院の管理下だ。
王都はすでに騒ぎ始めている。
奇跡の薬は、毒だった。
教会はその真実を隠していた。
薬師ギルドが奇跡を潰そうとしていた。
商会はその霊薬を売っている。
噂は常に怪物である。
事実よりも早く千の山を飛び越え、甘い顔で夜を揺らし、必ず裏切る。
ビアトリクスは羽根ペンを取り、白い紙の上にまずこの一行を書きつけた。
――本件は、薬害事件である以前に異界の祝福、すなわち「奇跡」の運用不全である可能性を検証すべき。
書いてから、彼女は目を伏せた。
奇跡。その言葉は嫌いではないが、無防備に信じるほど幼くもない。
彼女がいま座っているこの清浄区画もまた、異界の知識と魔術が作り上げた「奇跡」だ。
目に見えぬ病の種子を濾し取り、滅し、外の風から彼女を守る。
それはこの世界の知識からすれば、ほとんど神の御業に等しい複雑さで作られている。
ここは檻だ。同時に揺り籠でもある。
自分とて生まれついてこのような身体では無かった。あの「事故」さえなければ――。
そしてまた「奇跡」がなければ、自分はこの歳まで生きていない。しかし、二度と外へも出られない。どちらも事実だ。
この件も構造は一致する。
奇跡であり、毒である。
異界からの、超常の異能がもたらした。
「件の聖女は?」
ビアトリクスが問うと、控えていた侍女、サフィールが無表情のまま答える。
「セラフィーナお嬢様の希望により、第三審問室に。泣いておいでですが、暴れる様子はありません」
「やはり。責められているとお思いなのか」
「実際、責める声も多くございます」
ビアトリクスは淡々と頷いた。
「だが、ただ責めるだけなら、審問院など要らない」
彼女は小瓶へ視線を戻した。
美しい金色だ、とは思うが。ビアトリクスの目では、それ以上は分からない。
記録と過去例は引ける。
紙の上の文字は噂のようには動かない。
だからこれは、人と紙だけで裁ける案件とは思えない。
精霊の祝福。
異界由来の奇跡。聖女本人の真意。
そしてこの薬が、今、民に何をもたらし、何を腐らせているのか。
見極めなければならない。それには、対である彼女の目が要る。
天秤の妖精、セラフィーナ侯爵令嬢。
四十年も前に、妖精王より翡翠の目を預かったと記録にある。王家認定調停人。
だがビアトリクスにとっては、ただ一人、檻の外から同じ天秤を覗き込める存在だ。
平らかだった清浄結界が、湖畔の水面を揺らすように震えた。
ビアトリクスは病除けの白のヴェールを被り直すと、侍女を振り返った。
「談話室へ行こう、サフィール。貴女の主を迎えに」
談話、という名目とは真逆の、隔離と静音が目的の小部屋である。
一次訪問者に施される簡易的な清浄結界の向こうで、彼女が座っている。
淡い亜麻色の巻き毛。繊細なレースの眼帯。
春の菓子のように愛らしい侯爵令嬢が、今日も明るく微笑んでいる。
「ごきげんよう、わたくしの対の剣さん。ずいぶん物騒なお呼び出しですこと」
ビアトリクスも場に合わせるよう、穏やかに返す。
「ごきげんよう、私の天秤の妖精。ですが物騒なのは、貴女を呼んだ私ではなく、」
彼女は、霊薬を取り出した。
「――こちらの方だ」
「聖女様は、罪人ではございません」
「無論。表向きは保護だ」
「というと、扱いを大変に迷っておられるのですね?」
「あなたには誤魔化せませんね。教会は奇跡を守りたい。薬師は危険を訴えたい。商会ギルドは流通したい。そして王家は、燃え広がる前に収めたい」
セラフィーナは小さく笑った。
「美しい整理ですわ。けれど、起こした後で火事を悔やむのでは、それこそ道理が通りません」
「その言葉に耳を痛める者が、果たして何人いるか……」
ビアトリクスは、開いた記録簿の上に拳を置いた。
「過去の記録も含め、検めました。
だからこそ分かる。この薬は得体が知れない。民草の疑念は増すばかりだ。
聖女の言葉は祈りか、陶酔か、狂乱か。このままでは災禍と呼ぶ者も出るでしょう」
「つまり聖女様の言葉を、わたくしの目で見極めろと?」
「その為です」
ビアトリクスはためらわず切り込んだ。
「あなたの真実の目を、審問の場に借り受けたい」
***
第三審問室は、乳白の設えである。
薄桃色の壁。広い寝台は天蓋付きで、布の壁を下ろして姿を隠せる造りだ。
簡易的だが清浄魔術の陣が張られ、香も焚かれている。
逃げ場は無いが、温情を等分に含んでいた。
部屋は語る。罪人ではないと。
外壁のひとつ、面会窓の向こうに、噂の聖女が座っていた。
村娘と変わらない素朴な身なりである。白い前掛けは施救院のものだ。
栗色の髪は乱れ、目元は腫れて赤い。流された涙の多さが推し量られた。
ビアトリクスは聖女の前に腰を下ろした。
胸前に下げた十字剣型のペンダントを握って掲げる。
目の前の彼女に、自らの役割と、虚偽は裁かれるという事実を暗に示すためだ。
「名を」
聖女はびくりと肩を震わせる。
「……エマ、です」
「エマ。あなたが、教会施救院で霊薬を作った」
「はい」
「そして、幼子に与えた」
「……はい」
ビアトリクスは羽根ペンを構えた。
「あなたの薬の成果をまずは記録します。何人を救い、どのような病に効き、どの程度まで快復したのか。答えてください」
エマの唇が震える。
「たくさん、です」
「……名簿はありますか?」
「施救院に、多分あると思います」
「薬の強さを、あなたはどう決めていますか?」
「わかりません。治してってお願いすると、精霊が力をくれる……から」
「制御はできますか?」
「わかりません。やったこと、ない……」
「では、薬師との連携は」
エマは黙った。
「診立ての証左となる調剤書に基づき、誰に、いつ、どれだけを与えたか。当該期間の連続した行動録です。……まさか記録が無いとでも?」
聖女は唇を噛んだ。
「だって……あんなに苦しんでいたんですよ?」
「個人感情を礎とした主張は、当院への応答として受理できません」
当然のように、ビアトリクスは切り捨てた。
たまらずセラフィーナが、そっと扇を閉じる。
「ビーシュ」
その一言だけで、ビアトリクスは目を伏せた。切っ先を、半寸だけ下げるように。
セラフィーナは微笑を浮かべて、ビアトリクスの隣へ進み出た。
張り詰めた空気が、ふわりと温められる。
「聖女様。わたくしたちは、あなたの祈りを踏みにじるために参ったのではありません」
「……祈り?」
「わたくし、少し特別な目を持っております。あなたのお薬は、貴女の切なる祈りに、精霊が真から応えたものでした」
エマの拳が、わずかに緩む。
「だからこそ、測らねばなりません」
セラフィーナは、柔らかく言った。
「あなたの力を。その薬が救った命も、危うくした命も、まず正しく測りましょう」
「はかる……?」
「ええ。良きものだけを数え、痛ましいものから目を逸らせば。祝福ではなくなってしまいますから」
エマの顔が強張った。
「ちが、私……助けたかったの! それ以外は何も……!」
聖女の涙が新しく落ちる音と、ビアトリクスの羽根ペンが紙の上を走る音が、同時に生まれた。
「動機は、理解ができます」
羽根ペンを指先で弄びながら、ビアトリクスは続ける。
苛立つ時の彼女の癖だ。納得していない。
「だが、成果も被害も正確な記録なし。これでは救済ではなく、現象です。管理されるべきものだった」
慰めるように。
ベールを被ったままのビアトリクスの肩に、セラフィーナがそっと手を添えた。
「聖女様。本日はこれでお暇いたします。どうぞよく休まれますよう。不足があれば可能な限りお手配いたしますので……」
エマは何かを言いかけ、けれど言葉にできず、膝の上で両手を握った。
「予備審問を終了します」
ビアトリクスは羽根ペンを置いた。
「聖女エマの悪意は未確認。
霊薬の効能、投与経路、被害、流通品との差異。以上四点、以後は調停人および審問書記官で検めます」
「わたし……どうなるんですか」
エマは、泣き疲れた子どものようにぽつりと言った。
「聖女様。あなたの祈りを、わたくしは露ほども疑っておりません」
セラフィーナの翡翠の目が、面会窓のエマの顔を見て、淡く輝いた。
「ですから、今すぐ答えを出さなくてもよろしいのです。これから、この力をどうすればよいのか。一緒に考えましょう」




