薬の聖女をはかりなおす_1
待望の初夏が今年もめぐり来た。
王都の美しい石畳は、真っすぐな陽に照らされ、白くきらめく季節となった。
広場では、花弁の尾を持つ魚をかたどった水晶像の噴水が、霧の雨を降らせている。
白い石道には辻車が行き交い、パン屋は売り切れて店仕舞い、香油の店先には咲き初めの薔薇の香りが立ち込めていた。
幸いにして、その国は、飢えも乾きもない。
老いや病は無縁ではないが、望む者は分け隔てなく施しを得られる。
教会には施救院があり、大抵の職業にはギルドの後ろ盾があり、商会には疲れ知らずの馬車と厳格な帳簿があり、貴族には名誉と責任があった。
そして。
大陸でも随一の記録を誇る、この国の王立図書館には「異界より来たりし者ら」の歴史が封ぜられている。
ある者は不思議な麦を見つけ、精霊と共に豊穣をもたらした。
ある者は国の流通に革新を起こしたが、同じ手で国の貨幣を乱した。
転生者。転移者。異界の記憶を引き継ぐ者。
彼らはこの国の恩恵であり、祝福であり、時に災禍だ。
記録は綴られ続ける。幸福な人々の歓喜の涙をもって、あるいは、おびただしい犠牲者の血をインクとして。
――その春の終わり、王都の社交界で最も新しい「祝福」は、とある村娘の姿をしていた。
「ご存じかしら? 薬の聖女様のお話」
白磁の茶器が触れ合う音に混じって、伯爵夫人の声が弾んだ。
「もちろん。かの薬は、生まれつきの病魔をたちどころに退けるのでしょう」
「男爵家の若君のお話ですわね。一度も動かなかった足が、歩けるまでになったとか」
「返礼の祈りの際に、聖女様を見初められて求婚されたとか……まさに奇跡ですわ。素敵なお話」
王都西区、紅薔薇の隠れ家と名高きリリアント伯爵家の温室では、硝子越しの陽光が金色に揺れていた。
口当たりの良いごく薄い茶器。銀の盆に色とりどりの菓子が並ぶ。
高価で上品、王都の令嬢たちが好むような趣が凝らされている。
その中央で、小柄な令嬢がにこにこと笑っていた。
柔らかな頬と小さな手。ダリアのように赤く、ぷっくりとした唇。
年の頃は十六ほど。
背は低く、少しだけふくよかで、淡い亜麻色の巻き毛には緑のリボンを編み込むように飾っている。
片方の目は、繊細な刺繍でつづられたレースの眼帯に覆われている。
もう片方の目は、本物の翡翠にも劣らない、どこまでも澄んだ緑が宿っていた。
侯爵令嬢セラフィーナ・リア・ヴァレンティア。
社交界では「天秤の妖精」と呼ばれている。
「セラフィーナ様、聖女様の霊薬はどうご覧になって? さぞご興味おありでしょう?」
おしゃべり好きのリリアント伯爵夫人は、レースの扇子を開いて耳打ちをした。
問われたセラフィーナは、ふわりと微笑んだ。
「祝福と鑑みます。苦しむ方が救われるお話は、いつ伺っても心が温まりますわ」
本心からそう言った。場の空気が和らぐ。
この妖精は争いを好まない。
善意を頭から疑うこともしない。
可愛いものを可愛いと喜び、美味しい菓子を美味しいと笑い、人の祈りをただ美しいと思う。
ただ彼女も無知ではない。地に降りそそぐ祝福が、必ずしも恩恵であるとは限らない。
その意味と真意を知る、数少ない生き証人であるから。
「実はわたくし、手に入れましたの」
伯爵夫人が、扇の陰から小瓶を取り出した。
光を受けて、硝子瓶がきらりと輝く。薄い金と緑が混じった、不思議な色をしている。
「これが、あの……」
「なんて美しい、まるで夢の煙のよう……」
「ほんの一滴で百の病に効くそうですわ」
周囲の令嬢たちは胸に手を当てて、小さく息を呑む。
セラフィーナは微笑んだまま、その揺れる金の水面を見つめた。
翡翠の緑が、内側から、ちかりと瞬く。
小瓶の中で、精霊の力がくるくると踊っている。
澄んでいて強い。そしてあまりにも純度が高い。
薄い硝子の内側に、精霊の息吹そのものが、ぴっちりと閉じ込められているようだった。
セラフィーナは、半開きの赤いくちびるに小指を当てた。
(薬というより、力のひとしずくそのものですのね……)
然るべき身体に然るべく作用すれば、真に救いになる者もいるだろう。
しかし、強さに耐えられない者も出るかもしれない。それほどの力がある。
精霊の加護は濃ければよいというものではない。
祈りも、薬も、人の身に与えるのならば、相応に整える必要がある。
人の器は、思う以上に脆いのだから。
「あら? 気になるのね?」
からかうように、伯爵夫人が彼女のふくふくとした顔をのぞく。
セラフィーナは困ったような顔を作った。
牽制もしているが、猫のような夫人の気質を、彼女は嫌えないからだ。
「ところで奥様。こちら、どなたの診立てでお飲みになるのでしょうか?」
温室の空気が、ほんの少し静まった。
伯爵夫人は瞬きをした。
「……ございませんわね」
「薬師の方ですとか、お医者様のお見立て無しに、お買い求めになったと?」
「ですが。聖女様のお薬ということですから。悪しきものではないのでしょう?」
「もちろんですわ」
セラフィーナは、にっこりと頷いた。
「良きものに見えます。ですから、召し上がる前に、薬師かお医者様へご相談なさるとよろしいかと」
ややあって、別の令嬢が遠慮がちに口を挟んだ。
「実は、わたくしも。母が商会を通して、少しだけ分けて頂きましたの」
令嬢は爪先ほどの小さな瓶を取り出した。お守りよろしく、胸の飾りに忍ばせる程度のものだ。
だが、先ほどとは違う。
祝福の光が散りかけている。
ひき伸ばされ、別の薬水が混ぜられている。幸い害はなさそうだが。
絵画で言うなれば、贋作である。
それが真贋を問わず混ざり合い、流通され始めている。
胸の奥で、かすかな音を立てて彼女の天秤が傾いた。
聖女の薬も、そこに込められた祈りも本物だ。
だからこそ、加減を知らぬその力が、制限なく流れ始めている。このままでは危ない。
「まことに僭越ではございますが、」
セラフィーナは、そのぷっくりとした唇から手を離し、咲かすようにほころばせた。
「こればかりは、わたくし、はかり直したくなりましたわ」
その時、短い鈴の音が鳴った。
ヴァレンティア侯爵家の者が、急ぎの報にだけ鳴らす、魔法仕掛けの音色だ。
彼女の侍女ディアナが、音もなくセラフィーナの背後へ寄る。
セラフィーナも扇を閉じた。
先ほどまでの茶会の空気が、がらりと変わった。木陰に戯れていた小鳥たちが、一斉に逃げ帰るようだった。
温室の扉が開き、セラフィーナの護衛兼従者のイアンが片膝をつく。
その手に、目の覚めるような青い封蝋の小さな書簡を捧げている。
天秤と剣の証印。王立図書館特務資料室。
その意匠に、ほんの一瞬だけ、セラフィーナの指が止まった。
天秤の隣に剣がある。昔も、今も。
ディアナが封を切り、読み上げる。
『真実の目を借り受けたく存じます。至急、王立清浄区画へ。対の剣より』
天秤は大きく傾いた。
(――やはり。受け止める器が、この強い力に耐えきれなかった)
「……薬害が、起きましたか?」
イアンは短く答える。
「ご安心を。幸いながら未遂です。ただ、件の霊薬を服した幼子が、一時、呼吸を止めかけたと」
温室の令嬢たちが息を呑む。
セラフィーナは、ふたつの小瓶を順番にもう一度見て、うすく微笑んだ。
そして、すぐに立ち上がる。
「中座の無礼、どうかお許しくださいませ。あいにくながら、薔薇の香りを楽しんでいる場合ではないようですわ」
伯爵夫人が、ぱちりと扇を閉じた。自らも立ち上がる。
「……天秤の妖精が、お出ましになるのね」
セラフィーナは、夫人を見据えて、翡翠の目をそっと撫でた。
「ええ。奇跡を、災厄にしてはなりませんもの」




