第09話 王都の配合は持ってこなかった
新工房の作業台の上に、地元の市場で仕入れた原料が積まれている。
白い石英質の砂、アルカリの抽出に使う植物の灰、そして石灰。どれも硝子作りに使われるごく一般的な材料だ。
「さあ、始めましょう」
エリンがエプロンの紐を締め直して声をかけると、マルタとトビアスも表情を引き締めた。
王都の「銀樹硝子工房」には、代々受け継がれてきた『秘密の配合帳』があった。砂と灰の黄金比、微量に混ぜる鉱物の種類。それを知っていれば、誰が窯の前に立っても、ある程度は同じ品質の硝子が溶けた。
だが、その帳簿は父の商会の所有物であり、エリンが持ち出す権利はなかったし、持ち出す気もなかった。公開されている一般的な技法の知識だけで、ゼロから配合を見つけ出さなければならない。
「まずは基本の比率で溶かしてみる。マルタさん、温度は――」
「ええ、少し高めから入って様子を見ます」
窯に火が入り、地元の砂と灰が溶け合っていく。
だが、硝子というものは生き物のように環境に左右される。使う灰の混入物、新しい耐火煉瓦からの熱の跳ね返り、その日の湿度。それらが複雑に絡み合い、答えを変えるのだ。
数時間後、試験的に吹き上げられた一種類目の硝子は、見るも無惨なものだった。
「駄目ですね。酷く泡立って、濁りきっている」
トビアスが、冷え固まった不格好な塊を見てため息をついた。
「地元の灰に含まれる不純物の割合が、王都の物とは違うのね。灰の精製をもう一段階増やして、石灰の量を微調整しましょう」
エリンは試験片を分類し、自分で新しい分量を書き留めた。トビアスには、試し板を取れる大きさを確かめてもらう。
試作のロスは、そのまま資金のロスに直結する。着手金で買った原料と、窯を燃やし続けるための薪が、製品にならないまま灰になって消えていく。出納帳の数字は確実に削られているはずだが、ここで焦って基本の確認を怠れば、後で取り返しのつかない品質事故に繋がる。
二種類目の配合を試し、再び窯から熱い硝子を巻き取った。
今度は泡が抜け、滑らかな表面を持っていたが、光に透かすと全体にどんよりとした緑がかった筋が入っていた。
「強度は出そうですが、これでは温室の採光基準を満たしません」
エリンは緑色の失敗片を机に置き、腕を組んだ。
「親方、大丈夫ですか。薪の減りが予想より早いですが」
マルタが窯の火加減を見ながら、心配そうに声をかけてくる。
「王都の配合は持ってこなかったんですもの、この程度の授業料は仕方ありません。私たちの目と腕で、この窯の正解を見つけましょう」
エリンが「次も駄目だったら、一緒に原料から見直してください」と頼むと、マルタとトビアスも「わかりました」と力強く頷いてくれた。
退職から十九日目のお昼時。
エリンたちが二種類目の緑がかった失敗片を前に、次の配合の最終確認を行っている時だった。
「作業中、失礼する」
工房の入り口から、領主ルシアン・フローレンが姿を現した。
昼の検査の時刻を選んで来たらしい。
「フローレン卿。何か設計の変更でしょうか」
「いや。ただ、進捗を確認しておきたくてね」
ルシアンはエリンの手元にある、失敗片の山に視線を落とした。
普通の職人なら、発注者が来た瞬間に失敗作を隠そうとするだろう。腕を疑われ、契約を打ち切られるのが怖いからだ。だが、エリンはあえて隠さなかった。
「ご覧の通り、難航しています。地元の灰の性質が王都のものと違い、まだ透明度と強度の許容範囲に達していません。ですが、原因は切り分けられました。三種類目を試します。通るまでは、出荷できるとは申し上げません」
「そうか」
ルシアンは失敗片を持ち上げようとして、途中で手を止めた。
「触れても?」
「はい。冷えている方なら」
エリンは箱の蓋へ伸ばしかけていた手を引いた。発注者に、わざわざ失敗を見せるのは怖かった。
それでも彼は、泡の残る板と緑の板を順に光へかざし、「違いはわかります」と言った。
「ヴァイス職人」
ルシアンは、机の上に置かれていた緑がかった失敗片を指差した。
「先日、農園で教わった打音の練習のために、この失敗片を一つ、持ち帰っても構わないだろうか」
「これをですか?」
エリンは少し驚いた。領主がわざわざ、職人の失敗したゴミを持ち帰るというのだ。
「ああ。私の部屋で、色や厚みが違えば、音も変わるのか確かめたい。もちろん、あなたたちの技術の秘密を盗むような真似はしないと誓うが」
「ふふっ。色は失敗しましたが、これは亀裂のない方です。音を比べるなら、同じ大きさと厚みに揃えてからですよ」
エリンが許可を出すと、ルシアンは「感謝する」と短く言い、ハンカチで失敗片を包んで自分のポケットへしまった。
そして、「良い報せを待っている」とだけ残して、静かに工房を去っていった。
「さて」
エリンは改めて気合を入れ直し、吹き竿を手にした。
「三種類目、いきましょう」
午後。三つ目の試験配合で溶かされた硝子は、竿の先で美しい水飴のように輝いていた。
エリンはそれを慎重に吹き膨らませ、小円筒状に成形してから、専用の台の上で割り開いて板状にならしていく。
「おっ……!」
トビアスが、歓喜の声を漏らした。
平らにならされた小板は、嫌な泡立ちもなく、あのどんよりとした緑色も消え失せていた。
秋の西日を透かして見ても、温室の採光基準を十分に満たすだけの透明度が出ている。
「やりましたね、親方! これならいける」
「ええ。ひとまず、配合の正解は出たわ」
エリンは安堵の息を吐き、熱い板を徐冷炉(ゆっくりと冷ますための場所)へ移す作業を始めた。
硝子は、急激に冷ますと内部に圧力(冷却応力)が残り、ちょっとした衝撃で自壊してしまう。そのため、ゆっくりと時間をかけて常温に戻す『退火』という工程が不可欠なのだ。
エリンたちは夕方まで作業を続け、三種類目の配合で作った最初の一組を徐冷炉に納めた。
「これで明日の朝には、綺麗な板が揃いますね」
トビアスが背伸びをしながら笑う。エリンも、ようやく肩の荷が下りた気がしていた。
だが、火番を代わる前に退火の記録を確かめたマルタが、炉の奥を指した。
「手前と奥で、冷め方が違います。明日は一緒の箱に入れないで」
エリンは頷き、冷却位置の図へ印を付けた。
ようやく透明になった硝子だ。ここで十三枚を続けて作ってよいのか。一度、吹き竿を置きかける。
「厚みの違いも含めて確かめたい。最初の一組は十三枚まで。全部、試作の札を付けます」
その場で、販売用とは別の赤札を用意した。
翌朝、冷却を終えた板の一枚を光へかざすと、縁に細い筋が見えた。
透き通っているのに、胸の中だけが曇った。




