第07話 火を入れられない窯
休眠工房の冷たい空気に、コン、コン、と硬い音が響いた。
熟練の窯番であるマルタが、窯の内壁を専用の小さな金槌で軽く叩いている。彼女の表情は険しかった。二年間放置されていた耐火煉瓦の表面の埃を払い落とすと、その奥に走る亀裂が見つかったのだ。
「やはり駄目です、親方」
マルタは金槌を置き、首を横に振った。
「表面のひび割れだけじゃありません。奥の煉瓦まで乾いた異音がします。このまま高温の火を入れれば、熱膨張に耐えきれずに窯の壁が崩落しますよ」
エリンは窯の中を覗き込み、唇を噛んだ。
温室の小板六十四枚を作るための、命綱となる窯。これの修繕には、新しい耐火煉瓦の調達と石工の手配が必要だ。ざっと計算して、銀貨六十枚は飛んでいく。領主ルシアンから受け取った着手金の百二十枚があるため、資金の支払いは可能だ。
だが、問題はお金だけではなかった。
「……修繕の工事自体はすぐに手配できても、耐火用の目地材と煉瓦を完全に乾燥させるために、丸四日は火を入れられないわね」
「ええ。無理に火を入れて水分が急激に蒸発すれば、窯が破裂しますから」
三十一日目という、中間検収の納期が重くのしかかる。
六十四枚のうち、半分の三十二枚を基準に合う品質で揃えなければならない。試作の時間を四日間も削られるのは、生産計画において致命的な痛手だった。
「それでも、直さなければ始まらないわ」
エリンは自分に言い聞かせるように呟き、立ち上がった。
正式に工房を借りる手続きは、十二日目に行った。家賃十四枚と敷金十四枚を払い、領域を移した職人資格の届出には手数料五枚を納めた。
必要な工具の買い足しに十六枚。三人の初めの住食に十枚。二人は以後、自分の住食を給料から支払う。
宿屋窓の四十二枚と農園の着手金百二十枚を足し、ここまでの支出を引くと、修理前の自由現金は二百二十七枚だった。
その残高を確かめ、修理代六十枚を用意した。
その日の午後、エリンはこの旧石材倉庫の所有者である貸主、ハルヴァの家を訪ねた。
六十一歳になる白髪のハルヴァは、エリンが持ち込んだ修繕の承諾書に目を通し、胡散臭そうに鼻を鳴らした。
「窯を直すのは勝手だがね、嬢ちゃん。わしは建物と休眠窯を貸すだけだ。修繕費の分だけ家賃を免除するとか、窯を無償で譲与するなんてことはしないよ」
「承知しています。修繕費の銀貨六十枚は、すべて私の工房で負担します」
エリンは机の上に、もう一枚の契約書面を並べた。
「その代わり、この承諾書に署名をお願いします。私が修繕のために設置した耐火煉瓦や取り外せない部材は、私が退出する際に買い取り請求をせず、すべてハルヴァさんの所有物として置いていくという誓約です」
ハルヴァは目を丸くした。彼にとって損のない、法的境界を明確にする条件だ。
「……そこまで言い切るなら、文句はない。その代わり、家賃は一年据え置きにしよう。ここへ書いておく。それでよければ直してくれ」
署名の入った承諾書を受け取り、エリンは足早に工房へ戻った。これで、誰に口出しされることもなく、合法的に自分の責任で窯を改修・稼働させる土台が整った。
宿屋仕事の合間にマルタが相談しておいた石工が、材料を持って来た。十二日目のうちに傷んだ箇所を入れ替え、目地を詰める。翌日から十六日目までは乾燥に取る予定だった。
だが、焦りはエリンの心の中で少しずつ膨らんでいった。
修繕工事が終わった直後のことだ。
窯の前で乾燥状態を確かめるマルタの背中に、エリンは思わず声をかけていた。
「マルタさん。表面の目地材だけでも乾いたら、早期に弱い火を入れて、小板の試し溶かしを始められないかしら」
少しでも早く、地元の原料の溶け具合を確かめたかった。王都の配合帳がない以上、試作と失敗を繰り返す時間が必要だ。四日も待っていては、中間検収の納期に間に合わなくなる。
しかし、エリンの言葉を聞いたマルタは、ピタリと作業の手を止めた。
「親方」
振り返った彼女の目は、恐ろしいほど冷たく、鋭かった。
「ここでも、人より注文が先ですか」
「え……?」
「弱い火なら大丈夫だなんて、誰が保証するんですか。万が一、内部の水分が膨張して窯が弾けたら、炉前に立つ私やトビアスが大怪我をします。納期を守るために、また安全を後回しにするんですか!」
頭を殴られたような衝撃だった。
エリンは、息を呑んだ。
出荷前のひずみを見つけた時、「あとで点検すればいい」と納期を優先したレオンや父を、エリンは軽蔑した。職人の命や責任を数字だけで量る彼らから離れるために、この北の地へ来たはずだ。
それなのに、エリンは今、納期に追われて同じことをしようとしていた。
「マルタさん……」
エリンは両手で顔を覆い、深く、深く息を吐き出した。
「ごめんなさい。私が間違っていました」
顔を上げ、エリンはマルタに深く頭を下げた。
「あなたは正しい。危険な窯に火は入れられない。王都を出る時、無茶な火入れをしようとしたら窯を止める権利をあなたに約束しましたね。どうか、その『安全停止権』を行使してください」
マルタは少し驚いたように目を見開き、それから、ふっと肩の力を抜いた。
「……ええ。私の権利として、この窯の乾燥が終わるまで、一切の火入れを禁じます」
「ありがとう。明日から丸四日、乾燥に取りましょう。火入れは十六日目の夜です」
マルタは乾燥の札へ自分の印を押し、エリンの前に置いた。
エリンもその下へ署名した。口約束だった権限が、二人の間で初めて使われた。
エリンはその足で、領主屋敷へと向かった。
納期が圧迫される以上、発注者であるルシアンに現状を報告する義務がある。
執務室に通されたエリンは、今日の修繕後に丸四日の乾燥が必要であり、試作の開始が遅れることを真っ直ぐに伝えた。家令のアデルが眉をひそめたが、ルシアンは黙ってエリンの説明を聞き終えた。
ルシアンは工程表を開き、乾燥の四日間を指でなぞった。
「遅延した場合の検収条件と、遅延賠償の規定は、契約台帳に記された通りでよいか?」
ルシアンが尋ねたのは、それだけだった。
「はい。万が一、中間の三十二枚が期日までに間に合わなければ、規定どおりの違約を支払います」
「わかった。安全を優先したあなたの判断を、私は発注者として記録しておく」
ルシアンは手元の書類に短く書き込みをし、エリンを見た。
彼もまた、現場の安全判断に権力で介入しようとはしなかった。ただ静かに、職人であるエリンに責任を委ねて待つことを選んでくれたのだ。
その日。エリンは彼を、本当の意味で仕事相手として信頼できると感じていた。
十六日目の夜。
完全に乾燥した修繕済みの窯の前に、エリンたち三人は立っていた。
マルタが専用の金槌で、新しい耐火煉瓦の壁を軽く叩く。
コン、コン、カン。
澄んだ、硬い音が響いた。
「親方。乾燥、終わりました。火を入れられます」
マルタが力強く頷き、エリンに笑いかけた。
「お願い、マルタさん」
彼女が種火を移すと、小さなるつぼ窯の奥で、ぱちりと薪がはぜた。
やがて、琥珀色の炎が静かに、だが力強く燃え上がり、冷たかった休眠工房を暖かな光で照らし出す。エリンたちの新しい工房が、本当の意味で産声を上げた瞬間だった。
トビアスが、入口に掛ける仮の板を持ってきた。
「名前、どうします。ずっと『新しい工房』じゃ、領収書も困りますよ」
窯の火が、まだ硝子のない窓枠を通して外の暗がりへ伸びていた。
エリンは募集紙にあった温室を思い出した。霜の降りる朝、あの中へ光が入る。そのために三人で火を起こしたのだ。
「霜灯。霜の中に、灯を残す工房はどうかしら」
マルタが火の具合を見てから、振り返った。
「読めるよう、振り仮名も付けてくださいね」
トビアスが木炭で「霜灯」と書き、その下へ小さく「しもあかり」と添える。
エリンは、工房主として初めて自分の印を、その名前の横へ押した。
だが、エリンたちが窯の修繕に追われていたのと同じ四日間。
領主の農園では、温室が建つ前の寒さ対策として、夜布を縫う園丁たちの手が止まらないでいた。




