第05話 八枚の窓で、初めての売上
八枚目は、七枚目より少しだけ小さく仕上げた。
風の強い通りにある古い宿屋の二階。木枠に硝子をはめ込むトビアスの手元を、エリンは慎重に見守っていた。真下では、宿屋の主人が心配そうに見上げている。
「親方。どうも最後の一枚の収まりが悪い。上の角が少しだけつかえる」
トビアスが小声で言った。彼が手にする八枚目の硝子板は、先ほど綺麗にはまった七枚目とまったく同じ規格寸法で切り出したものだ。
「枠の上側が、測った時より少し内へ反っていますね。板を下ろします」
トビアスは押し込まずに手を止め、エリンへ渡した。
「ええ。角に圧力を残したくないわ。上辺を、ここまで削り直せる?」
エリンが当たる位置へ印を付けると、トビアスは幅を確かめた。
「二ミリほどですね。細く切り落とすより、少しずつ研いだ方がいい」
作業台で縁を削り、エリンが寸法を測る。トビアスが仕上げた板を再び木枠に当てると、今度はどこにも余計な圧力がかからず、しかしガタつきもない無理のない位置に収まった。
翌日、退職から十一日目。宿屋の主人に八枚すべてを確かめてもらった。
「こいつはいい。隙間風が入らないし、なにより強い風が吹いても窓がガタガタと鳴らない」
仕上がりを一つずつ確認した宿屋の主人は、満足そうに頷いた。
「枠の歪みで手間を取らせちまったみたいだが、追加の料金はいるかい?」
「いいえ。この調整は、最初のお見積に含めています」
エリンは首を横に振った。
「そうか。あんたたちに頼んでよかったよ」
主人は革袋から銀貨を取り出し、エリンの手に載せた。
「残りの銀貨二十一枚だ。たしかに」
受け取った銀貨の重みが、手のひらに沈む。
手付金と合わせて、総額四十二枚。自分の判断で材料を仕入れ、自分たちの腕だけで納めた、北の町での初めての売上だった。
「――約束通り、納めたようだな」
不意に背後から声がして振り返ると、そこにはフローレン領主、ルシアンが立っていた。
どうやら、視察の途中で少し離れた場所からエリンたちの納品の様子を見ていたらしい。ルシアンは宿屋主に、窓の開閉をもう一度頼んだ。主人が笑いながら枠を動かすのを見て、ようやくエリンへ向き直った。
「ええ。最初の仕事は終わりました」
エリンが答えると、ルシアンは一つ頷いた。
「あなたの腕と、約束を守る姿勢は確認した。温室の件、正式な契約に進もう」
そのまま、エリンたちは領主屋敷の執務室へと場を移した。
家令のアデルが見守る中、エリンは再設計した温室の見積書を机の上に置く。
「南面の小板六十四枚、および開閉換気口を含む硝子部分の総額は、銀貨三百枚です。お支払いは、本日の着手金として百二十枚。中間の三十二枚を検収していただいた時点で百二十枚。そして最終の六十四枚すべての検収が完了した時点で、残りの六十枚を頂きます」
製造過程の破損ややり直しはエリンたちの工房の負担だが、温室の木枠の建造や暖房の管理は領主側の責任となる。遅延した場合の賠償条項なども、細かく契約台帳に記載してある。
「三百枚か。当初の予算配分からは大きく動いたな」
ルシアンは見積書の数字を見つめ、それからエリンを見た。
「ですが、これが現実的な数字です。支援の意味合いが含まれているなら、お断りします。私は仕事の対価として、この金額を頂きます」
エリンが念を押すと、ルシアンはふっと口元を緩めた。
「もちろんです。これは領主家の農園が積み立てた建設費です。三百枚の支払いには、約束どおりの成果を求めますよ、ヴァイス職人」
「望むところです、フローレン卿」
エリンも、自然と笑みを返していた。ただの庇護者と可哀想な職人ではない。エリンたちは今、契約書を挟んで対等な発注者と受注者になったのだ。
アデルが、別紙の端を押さえた。
「検収後百八十日の製造保証。それから、枠や天候に原因のある破損は、原因を分けて有償で扱う。急いで風を塞ぐ必要がある時は、私が銀貨六枚まで仮発注できる。そこも双方の控えへ」
エリンは頷いた。木枠がたわんだ時に、硝子工房だけでは直せない。別々の責任を、危険な現場で初めて言い争わないための一枚だった。
ルシアンが羽ペンを取り、公務用の力強い筆跡で署名を行う。
契約は成立し、エリンはアデルから着手金である銀貨百二十枚を受け取った。これで、休眠窯の修繕費を払い、本格的な材料を仕入れることができる。
「一つ、個人的に聞いてもいいだろうか」
公的な手続きが終わった後、ルシアンがふと声を落として尋ねてきた。
「宿屋の主人が、枠に合わせて削り直してもらったと話していました。追加料金を取らなかったのは、なぜですか」
エリンは手元の革袋の紐を結びながら、彼を真っ直ぐに見た。
「枠を測って、それに合う板を納めるところまでお引き受けしましたから。昨日の削り直しは、その範囲です。板を押し込んで済ませるわけにはいきません」
ルシアンは少しだけ驚いたように目を見開き、それから「……あなたに頼んで正解だった」と、誰にも聞こえないような声で呟いた。
宿に戻ると、エリン宛に一通の封書が届いていた。
出発前に北方の職人組合留めで送るよう届け、町に着いてから宿を伝えておいたのだ。回送された手紙の差出人を見て、エリンは小さく息を呑んだ。
『王城薬草院・資材管理部』
それは、エリンが王都で退職当日に組合を通じて提出した「品質点検担当者の退任通知」に対する、公的な確認書だった。
封を切り、中に記された堅苦しい文章に目を通す。そこには、エリンの退任を正式に受理したという事務的な連絡に続けて、こう記されていた。
『なお、貴殿の過去の納品時における厳格な検査記録は、銀樹硝子工房が新たに手配した代替職人の試験片を評価するにあたり、超えるべき「比較基準」として用いることをここに通知する』
手紙を持つ手が、微かに震えた。
「代わりなどいくらでもいる」
あの朝、レオンはエリンを見下してそう言った。父も、エリンが撥ねた三十一番の硝子板を「大げさだ」と切り捨てた。
エリンは便箋を窓の光へかざした。いつもの点検の癖だった。
紙の上の自分の名は、父の商会の役職名とは切り離されている。それでも、七年分の検査は残っていた。
「親方、何の知らせでした?」
マルタに尋ねられ、エリンは確認書を差し出した。
読み終えたマルタが、書面の端を指で一度だけ叩く。
「持ってこられたものも、あったんですね」
エリンは頷き、明日の窯修理の見積の隣に、その手紙を置いた。




