第33話 注文書のない約束
橋の袂には、雪のない場所が二人分、掃いてあった。
百二十五日目の夜。約束の時刻より少し早く着いたエリンは、その端で箒を持つルシアンを見つけた。
「待っている間に、何かしたくなって」
彼は言い訳のように言い、箒を店先へ返した。
領主が一人で掃いた幅は、道全体の広さに比べれば小さい。けれど、エリンが立つ場所まで考えた幅だった。
「冷えましたか」
「少し。あなたは?」
「窯の前から来たので、今はちょうどいいです」
どうでもない会話を、二人で真剣に交わす。
以前なら、ここから見積や次の作業へ話を移した。今日は、その逃げ道がない。
橋を渡りきったところで、ルシアンが足を止めた。
「名前で呼ぶと決めた夜の続きを、話してもいいですか」
エリンは頷いた。
あの夜、彼が自分で言葉を止めたことを覚えている。止めてほしくなかったことも、覚えていた。
「契約書には書けない約束をしたい。……と言えば、また難しくなるでしょうか」
「少し、何を約束するのか考えてしまいます」
「そうですね。では、先に」
ルシアンは一度息を吐いた。
「あなたが好きです、エリン」
数字も役職も付かない一言だった。
エリンはすぐ答えようとして、声が出なかった。彼が不安そうに眉を寄せたので、慌てて首を振る。
「嫌なのではありません。待ってください。嬉しくて」
「……はい」
本当に待つので、少し笑いたくなった。
何でもすぐ決める人なのに、こんな返事を待っている。自分も、この人が好きなのだと、もう言い換える必要はなかった。
「私も好きです。ルシアン。用がなくても、会いたいと思っていました」
彼が視線を下げ、また上げる。いつもの落ち着いた顔ではない。
エリンは、その顔をもう少し見ていたかった。
「ただ、私は仕事を続けます。霜灯も、職人の名も、手放すつもりはありません」
「もちろん」
「忙しくて会えない日もあります。失敗すれば、機嫌の悪い日だって」
「私にもあります。ですから、勝手に察したつもりになる前に、尋ねさせてください」
その答えで、エリンの胸にあった硬いものが少し緩んだ。
失敗をしない自分として愛されるなら、ずっと検査台に立ち続けなければならない。
だが、彼は窯の火が消えた日も、返金の控えを落とした日も知っている。
「今、手をつないでも?」
ルシアンが尋ねた。
エリンは、差し出された手に自分の手を重ねた。
厚い手袋越しでは、温かいかどうかはよくわからない。それでも、指を曲げる動きは伝わった。
手袋を外そうとする彼を、エリンは止める。
「寒いですから、そのままで」
「職人の指を冷やすところでしたね」
「今日は、ただ私の指の心配でいいです」
言った途端に照れた。
ルシアンは「そうします」と答え、重ねた手を少しだけ引き寄せた。
二人は橋を戻ることにした。
たった数歩の間も、エリンは歩幅を間違えた。彼も合わせようとして、かえって同じところで足を止める。
「練習が要りますね」
エリンが言うと、彼は頷いた。
「硝子の音よりは、早く覚えたい」
エリンは声を上げて笑った。
仕事の邪魔をしないと誓うより、この人とこうして歩く時間が欲しい。その望みを、自分の予定表へ入れていいのだと思った。
帰宅後、ルシアンはアデルへ交際が成立したと届け出、翌朝、二人で三名審査委員にも正式に伝えた。
霜灯が候補に入る購買には、引き続き彼は関与しない。関係を隠さず、選定理由と価格を記録する。
「届出をしたら、疑問が一切出なくなるわけではありません」
アデルは淡々と言った。
「聞かれた時に説明できるよう、これまでどおり残します」
「はい」
エリンも答えた。
委員として聞き終えたベラが、書類を閉じた。
「それで、仕事でない話もしていいかい」
「……何でしょう」
「おめでとう」
たった一言で、昨日の橋より顔が熱くなった。
隣のルシアンも、同じように視線を落としている。イザが小さく笑い、会合はそこで終わった。
交際を伝えた夜、エリンは工房の鏡を拭いた。
亜麻色の髪は編み目が緩み、頬には作業の煤が少し残っている。市場で誰かに見られる前に、洗っておけばよかったと思う。
だが、ルシアンは煤の付いた顔も、失敗した日の顔も知っている。そのうえで、好きだと言ってくれたのだ。
鏡へ向かって一度だけ彼の名を呼んでみて、すぐ口を押さえた。
廊下からマルタの足音がする。
声を掛けられるかと思ったが、扉の前に湯の入った桶が置かれただけだった。
「親方、明日の朝は少し遅くていいですよ。検査の前に、ちゃんと顔を洗って」
全部気づかれている。
エリンは湯へ布を浸しながら、笑ってしまった。
百二十八日目、王都を六日前に発った馬車が町へ入った。
エリンはトビアスと一緒に停留所へ出た。彼は荷を持つつもりで来たはずなのに、空の手を何度も握ったり開いたりしている。
五歳の娘が馬車の中から彼を見つけ、厚い幌の隙間から手を振った。
「父さん!」
トビアスが扉の前へ走る。先に妻が降り、娘を受け取った彼は、二人をまとめて抱いた。
エリンは荷物を一つ引き受け、少し離れて立った。
「お帰りなさい」と彼が言いかけ、「来てくれてありがとう」と直した。
妻は笑って、彼の肩を叩いた。
家族の荷は、三人で王都を出た時よりずっと多かった。
この町で暮らすつもりの重さだった。




