第30話 戻らないことが、私の返事
退職から百八日目の夜。
エリンは、父ベネディクトが滞在している北の宿の一室に呼ばれていた。
「座りなさい、エリン」
父は重々しい口調でエリンに椅子を勧め、机の上に一枚の羊皮紙を滑らせた。
「広告をレオンに任せきりにした。調査通知を受けた時に、私が止めるべきだった。……あいつの処分は王都へ戻ってから決めるが、それよりも、おまえへの話だ」
父の言葉に、エリンは書類へ目を落とした。
そこには、生産統括および品質責任者としての『銀樹硝子工房』への復帰提案と、以前の二倍近い破格の給与額が記されていた。
「戻ってきてほしい。おまえの実績と署名がなければ、王城薬草院の次期特殊板の公開入札に参加できないのだ」
父は書類を両手で押さえたまま、初めてはっきりと頭を下げた。
「王都の入札参加商号の公示で、霜灯の名を見た。うちには足りなくなった実績を、おまえは向こうで積み直していたんだな」
金銭的な条件だけを見れば、極寒の北の地で、資金繰りに怯えながら小さな窯を回し続けるより、はるかに魅力的で安定した申し出だった。
「それに、今回の件で現場の職人たちの反発もあってな。今後は現場の安全管理と品質の停止権を、エッダに一任することに決めた」
どこまで父の考えが変わったのかは、まだわからない。けれど、エッダたちの声が条件になった。そこは、エリンも嬉しかった。
だが。
「……良い条件ですね」
エリンは書類から顔を上げ、静かに、だがはっきりと首を横に振った。
「でも、お断りします」
「なぜだ! これ以上の条件がどこにある」
「お金の問題ではありません、お父様」
エリンは真っ直ぐに父を見返した。
「私は、王都の大きな利益よりも、今ここで私を信じて働いてくれているマルタさんやトビアス、ヨナたちに支払う給料を守りたいのです。待遇を直していただけるのは、残った皆さんのためにも嬉しいです。でも、いま私が引き受けた仕事と暮らしを置いて、ここへ戻ることはできません」
父は書類を見下ろした。給与額の下へ動いたペン先が、数字を書き足さないまま止まった。
「……そうか。おまえはもう、戻らないのだな」
父は肩を落とし、机の上の書類を引き寄せた。
「親子の縁を切るつもりはありません。いつか、対等な商取引としてなら、お会いすることもあるでしょう」
エリンは一礼し、静かに宿の部屋を後にした。
宿を出ると、身を切るような冷たい夜風が吹いていた。
約束した通りの角に、ルシアンが待っていた。前夜に話した帰り時刻を、少し過ぎている。
「……ルシアン、遅くなりました」
エリンが足を速めて声をかけると、ルシアンは少しだけ雪を払いながら歩み寄ってきた。
「戻るよう、勧められたのですか」
彼の問いに、エリンはふっと微笑んだ。
「戻らないことが、私の返事です。あちらには、立派な職人たちが残っていますから」
エリンの言葉を聞いて、ルシアンは深く息を吐き出し、安堵の表情を浮かべた。
「農園の審査は、これまでどおり三人に任せます」
ルシアンは一度言葉を切った。
「けれど今、ここへ残ると聞いて安心したのは、発注者としてではありません」
エリンは足を止めた。
彼も一歩先で止まり、こちらを向いた。
「私的な関係は……領主と職人という立場を抜きにして、別のものとして考えたい」
それは、静かで、だが確かな熱を帯びた言葉だった。
お互いが独立した一人の人間として、これからの距離をどう縮めていくか。エリンたちはその夜、初めて同じ未来の方向を向いて頷き合った。
百十日目。
トビアスが、王都にいる妻へ向けて一通の手紙を投函した。
『こちらの仕事の目処が立った。家族を養えるだけの給料は確実に出る。春を待たず、冬の間にグラナへ移住してきてほしい』という内容だった。エリンたちの霜灯工房が、職人の家族を支えられるだけの事業になりつつある証だった。
そして、百十二日目。
銀樹からの賠償金である銀貨二十五枚が、予定通りに組合経由で入金された。
白鹿亭のキャンセルによる損失を補い、第三者検査の費用を回収したことで、延期していた仕入れの一部を、ようやく戻せる。翌月の給与準備金を守りながら進める余地ができた。
その夜から雪が降り続いた。
翌朝、窯の当番を代わったところへ、農園の若い作業員が飛び込んできた。肩から帽子まで白い。
「温室の板が、二枚割れました。ベラさんが、まず苗を避難させるから、枠ごと見に来てほしいと」
エリンはマルタへ窯を任せ、道具箱と防寒着を取った。
雪の重さを硝子だけで受けているなら、板を替えるだけでは済まない。




