第03話 最初のお客様は、割れた窓
北の町で初めて聞いた音は、割れた窓の悲鳴だった。
王都アーヴェルを発って四日後、退職から七日目の夕刻。秋の冷たい風が吹きつける中、エリンたちが乗った定期乗合荷馬車は、北方フローレン領の領都グラナへ到着した。
石畳の通りへ降り立つと、建物のあちこちから、木枠に合っていない硝子窓が風に煽られてガタガタと軋む音が聞こえてくる。王都の穏やかな気候とは違う、北特有の強い風が吹いているのだ。
翌朝、エリンたちは組合の公募に記されていた「住居兼休眠工房」の貸主、ハルヴァという初老の男を訪ねた。
グラナ市内の外れにある旧石材倉庫の裏手。そこに、目的の小さなるつぼ窯があった。
「二年間放ったらかしだからね。窯を貸すのは構わんが、家賃の免除はできないよ」
ハルヴァの言葉に頷きながら、エリンは冷え切った窯の内部を覗き込んだ。
耐火煉瓦には埃が積もり、ところどころに細い亀裂が見える。火を入れる前に補修と数日間の乾燥が必要で、今すぐ硝子を溶かせる状態ではない。当面の家賃と敷金を払えば、残りの資金はさらに減る。
「親方。窯を直す前に、まずは今日の飯代を稼がないと」
荷物を置いたトビアスが、現実的な声を出した。
「ええ。町へ出ましょう」
エリンたちは宿に荷物を置き、グラナの町へ仕事を探しに出た。
目を付けたのは、昨日馬車から見た、風当たりの強い通りにある古い宿屋だ。二階の窓ガラスが割れたまま、薄い木の板が打ち付けられている。
「王都から新しい板を取り寄せるのは高いし、どうせまた冬の前の風で割れるんだ」
宿屋の主人は、肩をすくめて諦め顔だった。
「窯はまだ使えませんが、寸法を合わせた板を切ることはできます。隙間風を防ぐための、実用的な修理でよろしければ」
エリンは宿屋の主人に向かって、一つの提案をした。
市場に出回っている中古の平板を仕入れ、ここで再裁断して歪んだ木枠に合わせるのだ。これなら休眠窯を使わずに、すぐに納品できる。
「割れた窓、八枚ですね。材料費と加工賃を合わせて、総額で銀貨四十二枚。手付金として半額の二十一枚を頂ければ、三日以内に納めます」
王都の相場よりはずっと安いが、適正な利益は出る。主人はエリンの手を見つめ、それからマルタとトビアスの顔を交互に見て、ふうと息を吐いた。
「……前金を持ち逃げしないなら、頼むよ。すぐそこまで冬が来てるんだ」
エリンたちは宿屋の主人から、手付金である銀貨二十一枚を受け取った。
その足で市場の端にある廃材屋へ回り、古い建物の解体で出たという、寸法の揃わない中古の硝子板を自費で仕入れる。代金は銀貨十八枚。手付金のほとんどが消えたが、これで仕事が始められる。
ハルヴァに短期利用の承諾をもらい、倉庫の作業台に中古板を広げた。窯を借りる本契約は、修理費を調べてからだ。
トビアスが定規を当て、傷を避けて取れる幅を測った。
「まっすぐ取ると、最後の一枚が足りません。向きを変えますか」
「ええ。先に、この傷の終わりを確かめます」
エリンは、使い込まれた中古板の表面を左手の人差し指でなぞった。光を斜めから当てると、指の影の脇に擦り傷が浮かぶ。火傷痕のある指を引き、傷の終わりを石筆で囲んだ。
「この角にある深い傷は、少しでも風の圧力がかかれば割れの起点になります。でも、この傷を外して、斜めに寸法を取れば……ほら、八枚分をぎりぎり確保できます」
エリンが石筆で切り捨てる幅の線を引くと、トビアスは八枚分の寸法をもう一度確かめ、迷いのない手つきで硝子切りを当てた。鋭い音とともに、不要な部分が切り落とされ、宿屋の木枠に合わせた新しい長方形が現れる。
仕上げにエリンが縁の鋭い部分を滑らかに削り落とす。三人で作る、初めての売り物だった。
王都の大きな窯や、父の商会の看板がなくても、エリンたちの腕は確かにお金に換わる。「ここには仕事がある」と、冷たい作業台の上でエリンたちは確かに実感していた。
「――作業中、失礼する」
工房の入り口から声がしたのは、エリンたちが最後の一枚の縁取りをしている時だった。
顔を上げると、宿屋の主人に案内されて、一人の若い男が立っていた。
整った黒髪に、灰緑色の真っ直ぐな瞳。質の良い、しかし華美ではない仕立ての外套を着ている。
「紹介するよ。この領地を治めておられる、ルシアン・フローレン卿だ」
宿屋の主人の言葉に、マルタとトビアスが慌てて作業の手を止めた。エリンも立ち上がり、軽く頭を下げる。
「突然すまない。あなたがたが、例の公募を見て王都から来た職人ですね」
ルシアンは、領主という地位を振りかざすような威圧感を持っていなかった。彼は作業台に近づき、エリンたちが切り出したばかりの硝子板に目を落とした。
「一つ、教えてもらいたい。なぜ、あの宿屋の窓は風で割れたのだと思いますか」
挨拶もそこそこに発せられた問い。彼が探しているのは、お世辞を言う人間ではなく、技術を言葉にできる職人なのだとわかった。
エリンは手元の工具を置かず、作業を続けながら答えた。
「板そのものの弱さだけではありません。木枠の歪みが大きすぎて、風の振動をうまく逃がせなかったからです。硝子は硬いですが、逃げ場のない力には負けます」
エリンの答えを聞いて、ルシアンは灰緑色の瞳を微かに見開き、それから「なるほど」と短く頷いた。
「では、これも見ていただけますか」
彼は持参していた革の筒を開き、一枚の羊皮紙を作業台の空いた場所へ広げた。
それは、建物の設計図だった。
南側が大きく傾斜した屋根になっており、そこに何枚もの板が張られる構造になっている。
「これは……?」
「冬の霜から、農園の苗を守るための温室の図面です」
ルシアンはエリンを見て、静かに、だがはっきりと言った。
「この、小さな温室の硝子を作れますか」
エリンは手元の布で指を拭き、広げられた図面に目を落とした。
図面に記された大枠の寸法と、硝子を支える桟の数。それらを頭の中で組み合わせ、北の冷たい風を当ててみる。
数秒の後、エリンの頭の中で、その硝子は音を立てて割れた。




