第02話 母の髪留めを売った日
母の髪留めを、エリンは買取台に置いた。
母はこれを挿す時、百合の花を少し左へ傾けた。台の上で同じ向きに直しかけて、エリンは手を引いた。
くすんだ銀で作られた、百合の花を模した意匠の髪留め。エリンが硝子の道へ進む前に亡くなった母が残してくれた、形見だった。
王都の裏通りにある買取屋の主人は、油を引いた布で銀の表面を軽く拭い、分厚いルーペを目に当てて純度と細工の緻密さを確かめた。やがてルーペを外し、無言で指を二本立てる。
「銀貨、二十枚だ。細工は古いが、銀の重さがある」
「それで構いません」
エリンは短く頷いた。もう少し高く買ってくれないかと交渉するつもりはなかった。少しでも未練を見せれば、足元を見られて値を叩かれるだけだ。
主人がカウンターの上に並べた二十枚の銀貨を、持参した革袋へ滑り込ませる。チャリ、という金属音が、静かな店内に冷たく響いた。
これで、エリン個人の口座にあった貯蓄の銀貨百十五枚と合わせて、百三十五枚。
職人が独立して新しい窯を持つには、到底足りない額だ。だが、王都を離れ、新しい土地で生き直すための片道切符にはなる。革袋の紐を固く結び、エリンは薄暗い店舗を後にした。
退職から二日目の朝。
エリンは「銀樹硝子工房」の帳場に立っていた。
長年見慣れた樫の木の机越しに、商会主である父ベネディクトが、一枚の受領書と積み上げられた銀貨を差し出した。
「今月分の給与と、これまでの未払い分の精算だ。きっちり二十五枚。過不足はないな」
「確認いたしました」
銀貨二十五枚を昨日の革袋に収める。これでエリンの全財産は、百六十枚ちょうどになった。
「これでおまえと我が商会との関係は完全に切れた」
父の傍らで腕を組んでいたレオンが、油断のない冷ややかな目でエリンを見た。
「念のため確認しておくが、おまえが持ち出す荷物は、そこの箱だけだな」
彼の視線の先には、エリンの足元に置かれた古い工具箱がある。中に入っているのは、エリンが自費で購入した寸法の定規、吹き竿の手入れ道具、そして当座の衣類だけだ。
「はい。持ち出すのは私が正規の代金を払って購入した私物の工具と、衣類のみです。銀樹の建物、窯、製品、退職時に引き継いだ仕掛品、帳簿原本、そして固有の原料配合帳はすべて商会の所有物です。私個人の持ち分は一切ありませんから」
「わかっているならいい。腹いせに顧客のリストを持ち出したり、他の職人に集団離職をけしかけたりなどという、卑怯な真似はするなよ」
「……ご心配なく。引き抜きなどの勧誘は一切行いません」
エリンは真っ直ぐにレオンの目を見返した。
看板や設備は置いていく。エリンが持っていくのは、割れる硝子を見抜く目と、職人組合に登録された『上級硝子職人』の資格だけだ。
「さようなら、お父様」
最後に一度だけ頭を下げ、エリンは帳場を出た。
退職した日、品質担当者の変更通知を受け取って顔色を変えていた父だが、王城向けの納品は外部の有資格者を雇うなり、価格を値引くなりしてどうにか成立させるだろう。彼らにはその手腕と、大口卸売の商売網がある。
だからこそ、自分の名前で商売を始めなければならない。
工房の裏手へ回り、勝手口から大通りへ出ようとしたときだった。
「親方」
呼び止める声に足を止めると、荷袋を肩に担いだ熟練の窯番、マルタが立っていた。四十四歳になる彼女の隣には、板切り職人のトビアスの姿もある。彼もまた、大きな鞄を持っていた。
「マルタさん、トビアス……? その荷物は」
「私たちも、今朝付で商会と合意解約をしてきたところです」
マルタが事もなげに言った。エリンは驚いて目を見開く。
「二人とも、ここに残るつもりだと思っていました。次の仕事は決まっているんですか」
「親方に引き抜かれたわけじゃありませんよ」
マルタは首を横に振った。
「母さんがグラナの出身なのは知ってるでしょう。看護を頼める親類も北にいるし、移住するにはちょうどいい機会だったんです。それにね、私は安全な窯を守って、定期的な賃金をもらいたいんです。品質を後回しにして、無理な納期の賭けをするようなやり方では、いつか窯が悲鳴を上げますから」
「俺もです」
二十六歳のトビアスが一歩前に出た。
「王都には妻と幼い娘がいます。さすがに今すぐ見知らぬ土地へ連れて行くわけにはいかないので、半年間の別居を前提に妻を説得しました。俺の小物加工と裁断の腕で、家族をしっかり養える収入を得たい。だから、俺を半年間、試用期間として雇ってくれませんか」
二人の言葉に、エリンは言葉を失った。
マルタが解約書の控えを見せた。二人とも引継ぎを終え、賃金も受け取っている。余白には父の字で「固定費削減のため承諾」とあった。
「……本当に、いいんですか。私は今、銀貨百六十枚しか持っていません。王都のような立派な窯も用意できないし、すぐに仕事がある保証もないんですよ」
「だから、条件があります」
マルタが真剣な目を向けた。
「無茶な火入れをしようとしたら、私が窯を止める『安全停止権』を認めてください」
「俺は、家族への仕送りができること。それが条件です」
トビアスも真剣な声で続く。
エリンが彼らを「連れて行く」のではない。エリンは、彼ら二人に「選ばれた」のだ。
胸の奥が熱くなり、同時に、ずしりと重い責任が肩にのしかかるのを感じた。自分の仕事の正しさだけでなく、彼らの生活と命に責任を持たなければならない。
「……わかりました。マルタさんの停止権を認めます。二人の基本給は月十二枚。仕事が決まらなければ、その時点で残金と一緒に相談します」
深く頭を下げたエリンに、二人は笑って頷き返してくれた。
エリンたちが向かうのは、王都アーヴェルから北へ荷馬車で四日の距離にある北方フローレン領の領都、グラナだ。
あてがないわけではない。退職した日、組合の掲示板で見た一枚の公募用紙が、エリンたちの羅針盤だった。
『北方フローレン領・温室硝子の職人公募。前金あり、住居兼休眠工房の賃貸相談可』
休眠している窯を直して動かすには費用がかかる。だが、「前金あり」という条件が真実ならば、手持ちの百六十枚の資金と合わせて、最初の火を入れるところまでは辿り着けるかもしれない。
何より、そこに記されていた領主ルシアン・フローレンの自筆の言葉が、エリンの背中を押していた。
『割れる理由を説明できる職人を求む』
失敗を見ずに「あとで点検すればいい」と言い放った者たちとは違う。理由を求め、硝子と向き合おうとする発注者がそこにいるはずだ。
翌日の昼下がり。
王都の北門には、秋の定期乗合荷馬車が土埃を上げて待機していた。
「忘れ物はないかい、親方」
馬車の荷台に乗り込みながら、マルタが尋ねる。
「ええ。置いていくべきものは、すべて置いてきましたから」
エリンは荷馬車の御者に、三人分の移動運賃として銀貨十八枚を手渡した。革袋の中身は、これで百四十二枚に減った。これから出ていくお金のことを考えれば、血の気が引く思いだが、立ち止まっている余裕はない。
エリンたち三人の手荷物は、一人一つずつの三つだけだ。
御者が鞭を鳴らし、馬車がゆっくりと動き出す。
窓枠のない荷台から、王都の整然とした街並みが遠ざかっていく。やがて、重厚な王都の門が、背後で重い音を立てて閉まった。
奪われた看板は取り返さない。自分の名前で仕事を受け、この仲間たちに給料を払うのだ。
晩夏の風が微かに秋の冷たさを帯び始める中、エリンたちは火のない窯と最初の客を見つけるため、北へと向かった。




