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婚約者と父に硝子工房を追われた私ですが、辺境の堅物領主とは見積書から恋を始めます  作者: 他力本願寺


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第01話 その署名は、もう私のものではありません

その硝子は、王城へ運ぶ前に割れる。


エリンは、出荷を待つ四十枚のうち、いちばん端の一枚を朝の光へかざした。真ん中は澄んでいる。縁にも欠けはない。けれど、左人差し指の古い火傷痕が触れる板の端を少し傾けると、白い布を張った検査台の上に、細い白糸のような亀裂が浮かんだ。冷ます途中で、すでに割れ始めていたのだ。


「三十一番、出荷を止めます。代わりを一枚」


板切り職人のトビアスが木枠から出荷札を外そうとしたとき、背後の扉が荒く開いた。


「待ちなさい、エリン」


父ベネディクトと婚約者レオンが、磨いた靴のまま検査室へ入ってくる。父の手には、赤い封蝋を押した書類があった。


「今日から、おまえに工房の指図はさせない」


エリンは板を置かなかった。


「出荷を止めたことについてでしたら、理由をご説明します」


「そういうことだ。古い職人は要らない。これからは売り方のわかる者が工房を動かす」


レオンは、彼女が抜かせた札を顎でしゃくった。


「王城への納期まで十二日しかない。あとで点検すればいい」


「あとで、割れるかもしれません」


三十一番の縁を、エリンはもう一度光へかざした。仕事を取り上げても、検査の署名だけはさせるつもりなのか。


「大げさなことを言うな」と父が眉をひそめる。「表面はこれほど滑らかではないか。おまえがそうやって一枚ずつ撥ねるから、いつまで経っても数が捌けないのだ」


「硝子は薄い氷ではありません、お父様。目に見えない小さなひずみを抱えたまま固まります。急いで冷ました板は、知らないうちに割れる約束をしているのです」


エリンは仕上げ主任のエッダに視線を送り、水平な検査用の型板の上に三十一番の硝子板を静かに置いた。そして腰の革袋から、規定の検査に使う小さな木槌を取り出す。


「何をする気だ」


レオンが足を踏み出すより早く、エリンは板の端を規定どおりの軽い力でコン、と叩いた。


澄んだ高い音ではなく、乾いた濁った音が検査室に響く。次の瞬間、朝陽に浮かんでいた白糸のような筋から、稲妻のような亀裂が板の中央まで一気に走った。温度差を加えたわけでも、強く打ち据えたわけでもない。出荷前に必ず行う軽い打音試験だけで、硝子は自ら口を開いたのだ。


検査室が静まり返った。エッダが息を呑み、トビアスが「やはり退火の時のひずみか……」と低く呟く。


それでも、レオンはすぐに肩をすくめてみせた。


「たまたま外れが混じっていただけだろう。代わりの一枚を詰めれば済む話だ。エリン、父上から話がある。それと、残りの三十九枚には今すぐおまえの点検印を押しておけ」


父が赤い封蝋の書類を検査台の隅に広げた。


「『銀樹硝子工房』の生産統括、ならびに受注代理権を本日付で撤回する。今後の受注と出荷管理はすべてレオンに任せる。おまえは一職人として、言われた通りに板を吹き、書類に印を押していればいい」


七年間、生産も賃金も納期も見てきた。けれど、建物も窯も商会の帳簿も、父のものだ。生産統括は、父から任された役職にすぎない。


けれど。


「代理権のお返しの件、承知いたしました」


エリンはエプロンのポケットから、商会用の受注代理印を取り出して書類の上に置いた。


「ですが、私が検査していない硝子に、私個人の品質点検の署名をすることはできません」


「なんだと?」


父の声が低くなる。エリンは真っ直ぐに父とレオンを見返した。


「契約に署名するのは指先です。でも、その責任を負うのは毎日働く人間です。あとで点検すればいいとおっしゃる方の下で、私の名前と検査印をお貸しする義務はありません」


「思い上がるなよ、エリン」


レオンが冷たい笑みを浮かべ、一歩近づいてきた。


「おまえがどれほど現場で威張っていようと、所詮は雇われの身だ。はっきり言っておくが、僕とおまえの婚約も商会の都合だった。君は工房の部品として優秀だっただけだ。代わりなどいくらでもいる」


「……ええ。よくわかりました」


胸の奥で、最後の迷いが音を立てて綺麗に割れた。


エリンは左の手首から、婚約の印として贈られていた細い銀の腕輪を外し、受注代理印の隣に置いた。


「お言葉どおり、部品は今日で外れます。お父様、いま代理権を解かれるのでしたら、雇用契約も本日付の合意解約として退職いたします。それから――」


エリンは検査台の引き出しから、白紙の契約用紙を二枚取り出し、素早くペンを走らせた。一枚は合意による即日退職の確認書。もう一枚は、双方の署名と立会人一名で成立する婚約解消の合意書だ。


「こちらに署名をお願いします。退職も婚約の解消も、今日付です」


「ふん、脅しのつもりか。おまえ一人の給料が浮くなら願ったりだ」


父は忌々しげに鼻を鳴らし、退職確認書に荒々しく署名した。レオンもまた、プライドを傷つけられたようにペンを奪い取り、婚約解消書に自分の名を書き殴る。エリンは脇に立つエッダに「立会人欄をお願いできますか」と頼み、エッダは唇を噛み締めながらも、震えない手で署名してくれた。


「ありがとうございます、エッダさん。仕掛品の記録と、今朝の三十一番を含む点検結果はすべてこの台帳にあります。商会のものは紙一枚たりとも持ち出しません。私の仕事はここまでです」


「エリン……私は、家のことがあってここを離れられないわ。ごめんなさい」


「謝らないでください。エッダさんが残って工程を見てくださるなら、心強いです」


エリンは誰一人として引き抜く言葉をかけなかった。ただ、レオンの目を見て静かに告げる。


「これまでお世話になりました、オルデン氏。私の個人印の無断使用だけはなさらないよう、これより職人組合と王城薬草院へ退任通知を提出してまいります」


「好きにしろ!」


父の怒鳴り声を背に受けながら、エリンは一度検査室を出た。


その足で王都の職人組合へ向かい、窓口で手続きを行う。父が商会の役職を取り上げても、エリンが持つ『上級硝子職人』の資格は個人のものであり、誰にも奪えない。エリンは退任通知へ署名した。以後の検査に、自分の名は使わせない。受付印の付いた控えだけが、指先へ戻った。


控えを受け取り、窓口を離れたとき、組合の掲示板に貼られた一枚の募集紙が目に留まった。


『北方フローレン領・温室硝子の職人公募』


前金あり、住居兼休眠工房の賃貸相談可。その条件の下に、書き手の実直さが滲むような力強い自筆で、こう添えられていた。


――割れる理由を説明できる職人を求む。


エリンはその一文を、しばらく黙って見つめた。


昼過ぎ、私物の衣類を引き取るために銀樹硝子工房の検査場へ戻ると、ちょうど表門から王城薬草院の納品監督官が入ってくるところだった。本日の午後、事前確認に訪れることは最初から予定表に記されていたのだ。


「おお、監督官殿! お待ちしておりました、製品は順調に揃っておりますぞ」


父が揉み手をしながら出迎える。だが、監督官の手には、先ほど組合から即時回付されたばかりの担当者退任通知の控えが握られていた。


監督官は、衣類の包みを抱えて部屋の隅に立つエリンを一瞥し、冷ややかな声で父に告げた。


「ヴァイス商会主。当方の納品契約には、エリン・ヴァイス上級職人が品質点検の担当者として登録されています。本日付で彼女が退任したという通知を組合から受け取りましたが、事実ですか」


「あ、いや、それはですね、今後はレオンが責任を持って――」


「販売担当者の名では通りません。契約条項どおり、品質担当が替わったのなら、代替職人の試験板が必要です。残り十二日で用意できますか」


父とレオンの顔から、すっと血の気が引いた。


父がすがるような、あるいは睨みつけるような目でこちらを振り返る。


エリンは衣類の包みを持ち直し、深く一礼した。


「銀樹を代表する署名は、もう私のものではありません。新しい担当者でご対応ください」


父の返事を待たず、エリンは扉を閉めた。大通りへ出て、財布を握る。北へ行くなら、いくら要るだろう。

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