第25話 好意があっても、発注権は渡せない
ルシアンが署名を止めたところを、エリンは見ていた。
八十四日目、次の農園修理の説明を求められ、領主館へ来た時のことだった。
机に並んでいたのは霜灯だけでなく、町の加工業者と銀樹の北方営業所の見積だ。彼の指先が、自分たちの紙の端を押さえている。
「昨日から、何度も読み直しています」
ルシアンは羽ペンを置いた。
「この金額で工房は足りるだろうか。ほかの仕事を失ったなら、こちらを多めに頼めないか。そういう考えが、先に浮かんでしまう」
エリンの隣で、アデルが書類を引き取った。話は前日から始まっていたらしい。
頼んでもいない補填をしようとした、と責める言葉は出なかった。自分が十八枚の欄を消せずにいた時、彼も別の机で同じ数字を考えていたのだ。
「ヴァイス職人。あなたの見積を、私はもう公平に読めない」
ルシアンはエリンを見た。
「ですから、霜灯が候補になる選定と決裁から外れます」
嬉しいのか、寂しいのか、すぐにはわからなかった。
名前を呼んでもらった夜、あの続きを聞きたかった。その答えの一部が、いま仕事の机の上へ置かれている。
「私に会いに来ることも、やめるのですか」
尋ねるつもりのなかった言葉が出た。
アデルの前だった、と気づいた時には遅い。
ルシアンは少し目を見開いた。
「……それは、やめたくありません」
エリンは、彼の見積を押さえていない方の手を見た。指が強く曲がっている。
こちらも会いたい、と答えるには、すぐそばの書類が多すぎた。
アデルが咳払いをした。
「農園の購買については、私とベラ、それから利用者側の代表であるイザ殿で審査します。閣下の裁量とは別に、予算と仕様を記録します」
ルシアンが「お願いします」と言い、机から半歩下がった。
「あなたの注文が落ちることもあるでしょう」
「それは、私が見積を直す話です」
エリンはようやく彼を見た。
「会うかどうかまで、審査の結果で決めたくはありません」
アデルが今度は黙って書類を揃えた。その音が、やけに大きく聞こえた。
以後、委員に直接の利害がある案件は、該当者を外して代わりの者を入れる。評議会の調査も、ルシアンから照会や指示をしない。
決まったことを確認し、エリンは控えを受け取った。権限を手放すだけで、疑いがすべて消えるわけではない。だから経過を残すのだ、とアデルは言った。
帰り際、ルシアンが扉を開けてくれた。
いつもの、職人を送り出す距離だった。
エリンは一度立ち止まる。
「お仕事が終わったら、また話を聞いてください」
「はい」
短い返事のあと、彼の肩が少しだけ下がった。
それを見て、エリンも息を吐けた。
翌八十五日目、エッダから書面が届いた。
自分が手紙を出してから、まだ三日しか経っていない。驚いて封筒の日付を確かめると、発送は七十九日目だった。
添え書きには、王都で広告を見たのが七十六日目、その翌日には組合へ証言の認証を申し出た、とあった。
エッダは、北から頼まれるより先に動いていたのだ。
『会社の台帳を送ることはできません。けれど、私が自分の目で見たことなら話せます』
その一文で、エリンは泣きそうになった。
残ると決めた人を、置いてきたと思っていた。エッダは自分の場所から、まだ同じ仕事をしていた。
書面では、比較展示品が銀樹の製造品ではなく、販売部が調達した見本であること、広告の試験へ現場の検査印を出していないことが述べられていた。
認証が確かめているのは、エッダ本人の陳述であることだ。内容の正しさまで決めるものではない。比較品の経路は、市の調査で確かめる必要がある。
エリンは添え書きを私物の引き出しにしまい、証言書を調査用の綴じ紐へ通した。
今度は自分が、彼女の言葉を使い違えない番だった。
***
ルシアンの机から、霜灯の見積がなくなった。
決裁をしなくなっただけで、町の工房の火まで消えたわけではない。それなのに、何かを取り落としたように、彼は何度も机へ目を落とした。
彼女は、会いに来るのもやめるのかと尋ねた。
あれを好意と受け取っていいのだろうか。工房が心細い時だから、話し相手を求めただけかもしれない。
答えを考えるたび、あまりに自分に都合のよい方へ寄りそうになる。
彼は借りた端材を取り出した。布の裏には、彼女の字で小さく「傷あり」とある。
見積の数字は、読めなくなった。けれど、この字を見たいと思うことまで、誰かへ委ねる必要はないはずだった。
便箋へ「仕事の後に」と書き、そこでペンを止める。
今は、彼女に答える余裕がないかもしれない。
書き損じを丸めようとして、やめた。いつも、こちらで決めてしまおうとする。忙しいかどうかも、会いたいかどうかも、尋ねていいことのはずだ。
便箋に彼女の名を書き、呼びかけだけをしばらく見つめた。ヴァイス職人、と書く時より、指先が強張る。名を呼ぶだけでも、こちらの望みが伝わってしまいそうだった。
まだ出さない便箋を、日程帳へ挟んだ。
仕事から手を放したあと、自分が彼女へ何を望んでいるのかを、もう少し正確な言葉にしたかった。




