第24話 『秘伝を盗んだ』という値札
掲示板の紙を剥がしかけたトビアスの手を、エリンは止めた。
「そのまま。誰が、いつ貼ったかも残して」
前日の製法に関する異議に加え、七十九日目の朝には、比較広告まで並んでいた。
銀樹の規格板と、緑がかった「北方の新工房の板」。後者の割れ率が大きく書かれ、すぐ下には、霜灯の製法について照会中だという一文がある。
霜灯の製品を試したとは書いていない。けれど、隣り合わせに読めば、そうとしか思えない配置だった。
「あの色は、うちの失敗片に似ています」
「似ているだけでは、うちの品とは言えないわ」
だが、背後の人垣から聞こえてきたのは、まさにその言葉だった。
「霜灯の硝子、こんなに割れるのか」
エリンは振り返った。説明しようと口を開く前に、相手は人垣の向こうへ歩いていった。
呼び止めようにも、相手の名さえ知らなかった。
組合の書記に広告の写しを頼むと、第三者の検査が必要だと言われた。比較品は、銀樹の北方営業所が町の取引所に展示しているという。
現物を勝手に持ち出すわけにはいかない。市の商事評議会へ、展示品の保存と比較表示の調査を申し立てた。
「製法の照会も、ここで判断されるんですか」
「その事実調査は組合が行います。市が命じられるのは、表示の訂正と立証された損害の賠償です」
窓口で渡された二枚の受付票を、別々の綴じ紐へ通す。
いま必要なのは、相手の机から帳簿を奪うことではない。自分たちが何を作り、何を出荷したかを見失わないことだった。
工房へ戻ると、マルタが試作箱を開いていた。
灰を濾し直した日。緑の筋が出た日。十三枚を不合格にした日。
失敗片の横に、当時の札が残っている。
「捨てなくてよかったですね」
「ええ」
あの日は、見えるところに置いておくのさえ嫌だった。今日は、その箱を抱えて市庁舎へ行くことになる。
翌八十日目、学校の二十四枚は予定どおり検収された。
教師は広告の件を聞いていたが、現物と取付記録を確かめたうえで残金七十二枚を支払った。
「この窓がどう働くかは、私たちも見ています。わからないことが出たら、その時に聞きます」
その言葉を胸に持って帰った直後、白鹿亭の主人が来た。
持っている紙を見て、エリンは用件を察した。
「窓十枚の契約を、解除させてほしい」
主人は目を逸らさなかった。
「権利の問題が片付くまで待ちたい。けれど、うちの修理は待てない。宿を開けなきゃならないんだ」
製造前の異議申立てなら解除できる、という約款には、エリンも署名している。
材料はまだ仮予約だ。仕入先へ尋ねると、取り消しの手数料も要らないと言われた。支払う予定の二十七枚は出ていかない。だが、入る予定の四十五枚も来ない。
主人を見送って、出納帳の白鹿亭の欄に線を引いた。
予定粗利十八枚。その数字を消したあとも、窯番の給与日は消せなかった。
「今月は給料、待ちましょうか」
トビアスが言うので、エリンは首を振った。
「取り置いた分はあります。困るのは、次の仕入れの余裕よ。予備材を買うのを、先へ延ばします」
ヨナにも聞こえる声で伝えた。一人で帳簿を閉じてしまったら、工房の外で何を言われているか、三人は想像するしかなくなる。
八十二日目、ルシアンが工房へ来た。
「話を聞いてもらえますか」とエリンは先に頼んだ。彼は作業椅子へ座り、白鹿亭の控えを渡されるまで待ってくれた。
「領主の名前で反論を出すことは、望みません」
「わかりました」
「でも、何でもないふりをするのは、今日は無理です」
言ってから、胸が少し痛んだ。
独立したのだから一人で耐えなければ、と考えていた。けれど、三人に帳簿を見せたばかりなのに、この人にだけ平気な顔をするのも違う気がした。
ルシアンは、消された十八枚の欄を見た。
「白鹿亭のために空けた日まで、なくなったのですね」
「……はい。それが、一番悔しいです」
失ったのが紙の上の利益だけではないと、初めて言葉にできた。
ルシアンは答えを急がず、閉店の鐘が鳴るまで座っていた。
エッダにも、確かめたいことがあった。広告を作ったのは誰か。比較品は、現場でどう扱われていたか。
冬の王都までは書簡で六日。返事を待ってから調査を始めれば、それだけ遅れる。
エリンはそれでも手紙を書いた。助けて、ではなく、見聞きした事実を話してもらえるか、と。
そして手紙とは別に、いま手元にある出荷票を揃えた。返事がなくても、調査を進められるように。




