第23話 領主の注文だけでは食べていけない
退職から七十五日目。
エリンは工房の帳場で、学校の換気窓と、宿屋街の補修窓(四十枚)の入金予定表を見直していた。
領主農園という最初の大口契約を無事に終え、手元の資金は少し息を吹き返している。だが、エリンたちにはマルタやトビアス、そして新しく加わったヨナの給料を毎月払い続ける責任がある。領主の注文だけに依存していては、いつか必ず工房は干上がる。途切れることのない、次期の受注の確保が急務だった。
「……王都の規格品の営業が、かなり食い込んできていますね」
エリンの隣で、町から戻ったトビアスが忌々しげに言った。
「ええ。レオン……オルデン氏が持ち込んだ、あの格安の薄板ね」
「宿屋街の方は?」
エリンが尋ねると、トビアスは納品予定表を開いた。
「契約分は変わりません。ただ、その次の照会が減っています」
エリンは空いた受注欄を見た。安い板で間に合う枠もある。単価だけを書き並べても、その客には届かない。
案内には、納めた窓を実際に見られる場所と、検査の項目を書いた。学校の欄は「施工中・試し窓の排水確認済み」とする。まだ納めていない二十四枚を、実績に加えるわけにはいかない。
最後に、製造不良の無償保証と、風雪による有償修理の範囲を分け、対応できる日を確認してから受けると添えた。
「ここ、先に書いた方がいいですよ」
トビアスが、木枠ごとの採寸の一行を指した。
「昨日会った宿の人も、板が枠に入るかを気にしていましたから」
エリンはその行を上へ移し、二人で配る先を分けた。
その日の午後。
エリンたちの案内を見たという、個人宿屋「白鹿亭」の主人が工房を訪ねてきた。
「王都の規格品は確かに安い。だが、去年の冬、安い板を無理にはめ込んで、雪の重みで何枚も割れて痛い目を見たんだ。お前のところは、枠に合わせて調整してくれるんだろう。多少高くても、うちの窓を頼みたい」
「ありがとうございます。ただ、割れないとまではお約束できません。枠に合わせて、割れにくく納めます。先に、寸法と傷みを見せてください」
宿へ同行して採寸し、木枠の状態と工程の空きを確かめた。その日のうちに見積を示し、主人の承諾を得て契約書を作成した。
窓十枚。総額は銀貨四十五枚。材料と燃料などの直接原価が二十七枚で、予定粗利は十八枚の仕事だ。納期は九十日目。
「前金は頂きません。すべて完成し、木枠にはめ込んで検収を終えた時点で一括でのお支払いで結構です」
エリンはさらに、「品質の権利関係に異議が出た場合、製造着手前なら顧客が無償解除できる」という、組合ひな形の約款も添えた。宿屋組合の大きな注文とは別の、独立した一つの契約が、エリンたちの足元を確かに固めてくれた。
翌、七十六日目。
エリンが工房の前で白鹿亭の木枠の採寸記録をまとめていると、視察帰りのルシアンが通りかかった。
「繁盛しているようですね、ヴァイス職人」
ルシアンは、工房の壁に掛けられた新たな受注札を見て、少しだけ目を細めた。
「はい。白鹿亭のご主人から、窓の修理を直接ご依頼いただきました。王都の安い規格品ではなく、私たちの保守と品質を選んでくださったんです」
エリンが報告すると、ルシアンは静かに頷いた。
「私の農園の温室だけでは、この工房の職人たちを養い、食べていくことはできない。……あなたが私の外で、あなたの実力で成功してくれて、本当によかった」
少しだけ寂しそうに聞こえて、エリンは彼の顔を見た。だが、ルシアンは受注札の方へ目を向けたまま、「おめでとう」と付け加えた。
「……ありがとうございます。最初の図面に引いた赤線を、まだ覚えています。聞いてもらえなければ、あの仕事は受けられませんでした」
エリンが微笑むと、彼もまた、灰緑色の瞳を優しく細めた。
七十五日目に王都の職人組合を通じて届いていた案内を、エリンは七十八日目に改めて開いた。
『王城薬草院・次期特殊板の公開入札について』
次期の特殊注文は、継続契約ではなく公開募集へ移っていた。今度はエリンも、自分の商号で応募できる。
「ついに来たわね」
エリンは無償のサンプル板などではなく、規定に沿った正式な試験見積もりと、ここでの実績を証明する書類だけを揃えて提出する準備を整えた。王都の看板ではなく、「霜灯硝子工房のエリン・ヴァイス」という自分の名前で、真っ向から勝負をする時が来たのだ。
だが、その日の午後。
町へ買い出しに行っていたトビアスが、血相を変えて工房へ飛び込んできた。
「親方! 大変です、組合の掲示板が……!」
「どうしたの、トビアス」
「王都の銀樹の奴らが、権利について異議を出しています。うちの製法が、銀樹の『秘伝』を持ち出したものだと……!」
トビアスの言葉に、エリンは持っていたペンを強く握り締めた。
レオンが仕掛けてきたのは、単なる価格競争ではなかった。エリンたちの最も大切な「信用」を根底から破壊するための、理不尽な営業秘密侵害の言い掛かりだった。




