第22話 名前で呼んでも、契約は曲げない
退職から七十二日目の朝。
霜灯硝子工房の作業台には、ヨナが整理した二枚分の破片と試運搬の記録が並べられていた。
「くさびの傷と、運んだ時の擦れが、同じ側へ寄っているのね」
エリンは箱の図へ傷の位置を書き込み、腕を組んだ。
「親方、俺、搬入した時の荷車の積み方を思い出してみたんです」
トビアスが顔をしかめながら図面を広げた。
「二枚が割れた時の箱も、新しい縦置き枠も、荷台の右側へ寄せていました。農園へ向かう石橋には、右の車輪が先に落ちる段差があります。あそこで荷が傾くたび、同じ側の支えへ当たるのかもしれません」
「締めすぎたくさびは直した。でも、支えに当たる力はまだ残っている。次は、そこを確かめましょう」
エリンは深く頷いた。見習いのヨナがつけてくれた記録がなければ、この偏りに気づくのはもっと後になっていたかもしれない。
「擦れの出た側の支えを離して、荷が動かないよう緩衝材を入れ直しましょう。板は使わず、まず端材で同じ道を通って。段差では必ず速度を落としてもらうの」
「わかりました。それで衝撃は分散されるはずです」
解決策が見えたことで、工房内の空気がふっと軽くなった。
その朝、宿屋組合と規格補修四十枚の契約に署名した。総額百六十枚のうち前金六十四枚を受け取り、検収に応じて残りを受け取る。最終納品は九十七日目、最終代金の支払いは百七日目だ。この四十枚を運ぶ前に、もう一度確かめる箇所が見つかったのは、非常に大きな前進だった。
だが、翌七十三日目の昼下がり。
順調に窯を稼働させていたエリンたちの元に、予期せぬ依頼が舞い込んだ。
「ヴァイス職人、すまないが急ぎの頼みがある」
工房を訪れたのは、領主ルシアンだった。彼は少し余裕のない表情で、手にしたメモをエリンに見せた。
「農園の苗選別小屋の窓だが、外した建具を倒して二枚割ってしまった。明日の作業前に交換できれば助かる。今日中に手配できるだろうか」
エリンは手元の吹き竿を置き、窯の温度計と、壁際に貼られた生産予定表を見比べた。
特急の依頼。しかも相手は、最初の大口顧客であり、恩義もある領主だ。王都の『銀樹』にいた頃なら、父は「他の小口客の納期を遅らせてでも、領主様の依頼を最優先しろ」と即座に命じたに違いない。
だが、エリンは予定表から目を逸らさなかった。
今のエリンたちの小窯と、職人三人の生産能力は、宿屋街の四十枚の納期に向けて完璧に計算され、フル稼働している。同じ規格の板があっても、採寸と加工、取り付けに誰かが出なければならない。炉の交替と学校への搬入を外せば、その人を作れる。だが、それでは先に交わした約束を崩す。
「……申し訳ありません、フローレン卿」
エリンはルシアンに向き直り、はっきりと頭を下げた。
「先の一般のお客様との約束が詰まっております。この窯の火は、今彼らのために燃えているのです。農園の修理は、現在の宿屋街の仕事が終わってから、改めてお見積もりと納期を出し直させてください」
ルシアンの横に控えていた家令のアデルが、「時刻を一日ずらしても無理ですか」と工程表を確かめた。
だが、ルシアンはアデルを手で制した。
彼は少しの間、燃える窯とエリンの顔を交互に見つめ、やがて静かに息を吐いた。
「……わかった。無理を言ってすまなかった。急ぎの修理分については、別の業者に依頼して仮の板を張らせることにする」
「申し訳ありません」
エリンはもう一度頭を下げ、彼らが工房を去っていくのを見送った。
二枚分の仕事を逃した。次も農園から声がかかるとは限らない。
エリンはしばらく入口を見ていたが、学校へ運ぶ板の札を持ち直した。今日納めると約束した先が、まだ待っている。
その日の夜。
一日の熱い作業を終え、エリンが工房の裏手にある小さな川沿いの石積みに腰掛けて涼んでいると、静かな足音が近づいてきた。
「隣、いいだろうか」
見上げると、そこには私服姿のルシアンが立っていた。
「……はい。どうぞ」
エリンが場所を空けると、彼は少し距離を置いて石積みに腰を下ろした。夜の風が、火照った頬に心地よく当たる。
「昼間は、仕事を止めてしまいましたね」
ルシアンが夜空を見上げたまま、静かな声で言った。
「別の業者に、明日の朝を頼めました。あなたに断られた時は少し困りましたが、先約があるなら仕方ありません」
「私の方こそ、貴重なご注文をお断りしてしまってすみません」
「いえ。建具を倒したのは私です。片付けまで手伝えるつもりだったのですが」
「……お怪我は?」
「ありません。ベラには、運ぶ前に人を呼べと言われました」
エリンは少し笑い、彼の手を見た。袖口から出た指に傷はない。昼間、注文を断ることばかり考えて、聞きそびれていた。
しばらくの間、エリンたちは川のせせらぎを聞きながら、無言で座っていた。気まずさはなく、ただ穏やかな時間が流れていた。
「……業務を離れた私的な場では、役職ではなく名前で呼んでくれないだろうか」
ふいに、ルシアンが顔を向けてそう言った。
その灰緑色の瞳には、領主としての鎧を脱いだ、一人の男性としての真摯な光が宿っていた。
「私のことは、ルシアンと」
「……はい。では、私のこともエリンと」
互いに許可を得て、エリンたちは初めて、私的な名前を口にした。
「ルシアン」
「エリン」
その響きは、冷たい夜の空気の中で、少しだけ耳を熱くさせた。
まだ恋人ではない。けれど、契約書や図面を挟まない、一人の人間同士としての柔らかな親密さが、確かにそこにはあった。
立ち上がり、別れ際になった時。
ルシアンがふと足を止め、エリンに向かって少しだけ躊躇うように手を伸ばしかけた。
「ヴァイス職人――いえ、エリン。契約書には……」
エリンは息を止めた。続きが聞きたくて、彼の顔を見上げる。
けれどルシアンは、伸ばしかけた手を自分で下ろした。
「……明日の納期の話です。そういうことにしておいてくれませんか」
明日の農園の修理は別業者へ頼んだばかりだ。二人とも、その言い訳が苦しいとわかっている。
それでも、今は笑わなかった。
「はい。今夜は、そういうことに」
川の向こうで、戸を閉める音がした。ルシアンは立ち去りかけ、もう一度だけ振り返った。
「おやすみ、エリン」
役職を付けない声を、帰ってからも覚えていた。
翌朝、七十四日目。
農園の修理辞退の控えを届けるため、エリンは領主の執務室を訪れた。
机越しにエリンを見た彼は、昨夜の甘い空気を一切引きずることなく、いつもの引き締まった表情で口を開いた。
「よく来てくれた、ヴァイス職人」
エリンも、淀みなく返す。
「おはようございます、フローレン卿。昨日お断りした件の控えです。今朝の修理は終わりましたか」
「終わりました。作業にも間に合ったそうです」
彼は控えを受け取り、いつもの場所へ署名する。
エリンはその字を見た。昨夜、同じ手が自分へ伸びかけたことを、思い出さずにはいられなかった。




