第21話 新人に教えるのは、割り方から
退職から六十九日目の朝。
窯の補修を終えて乾燥を待つ霜灯硝子工房に、一人の若者が元気な足音を響かせてやってきた。
「おはようございます、親方さん! 今日からよろしくお願いします!」
十九歳の石工見習い、ヨナだ。
彼はやる気に満ち溢れており、少しでも役に立とうと、到着するなり工房内をせわしなく動き回り始めた。そして、作業台の隅に積まれていた鋭い硝子の破片の山を見つけると、それをただのゴミだと思ったのか、板を包んだ布ごと運ぼうとした。布の端から、鋭い縁が覗いている。
「馬鹿野郎、その布では持つな!」
トビアスの鋭い怒声が飛び、ヨナはビクッとして手を引っ込めた。
「硝子の破片は刃物と同じだ! 持ち方も知らない素人が触れば、指の腱まで持っていかれるぞ!」
「す、すみません……ただ、片付けようと」
「悪い、先に教えるべきだった。だが、説明している間は俺の裁断が止まる。親方、今日の仕上げの数も減りますよ」
トビアスは苛立ちを隠せずに頭を掻いた。
エリンは二人の間に入り、怯えるヨナを落ち着かせるように声をかけた。
「ヨナ。その布の外へ縁が出ているでしょう。持ち上げた時、手に当たります。まず、板を動かす道具と手袋を覚えて」
エリンは彼と向き合い、正式な条件を告げた。
「今日から試験雇用として契約します。本雇用後の月給は銀貨八枚。八十九日目までの試用二十一日分は六枚で精算し、九十日目に本雇用へ進むか話し合います。それから、必ず守ってほしいルールがあります。危険な作業や、硝子を直接扱う時は、必ず私かマルタさん、トビアスの立ち会いを必須とします」
「はい、わかりました。でも……それじゃあ、俺は一体何をすればいいんですか?」
「あなたにやってもらう最初の一週間の仕事は、これよ」
エリンはトビアスの作業表から、午後の裁断を一組、翌日の空きへ移した。
「教える分は減らします。残った仕事まで、今日中にとは言いません」
それからヨナへ、紙と木炭を渡した。
「『割れ板の分類と記録』。これまでに出た欠陥品や、輸送中に割れた破片の山。それがどこから、どういう形で割れているのかを、一つずつ紙に書き出してちょうだい」
ヨナはきょとんとした。
「割れた理由なんて、俺にはわかりませんよ?」
「だから、彼に聞くのよ」
エリンがトビアスを指差すと、トビアスは「えっ、俺にですか?」と嫌そうな顔をした。
「そう。トビアス、あなたが彼に『なぜこの板が割れたのか』を説明してあげて。ヨナはそれを聞いて書き留めるの」
最初は渋々だったトビアスだが、ヨナがトビアスの示す破片を見て「これはどうしてここが欠けてるんですか?」と尋ねるたびに、答えざるを得なくなった。
「あー、そいつは俺が裁断の時に刃を当てる角度を少ししくじったんだ」
「こっちは?」
「それは……木くさびを強く打ちすぎたせいで、端に圧力がかかったんだよ」
トビアスは、自分の失敗や作業の過程を、いやおうなく言葉にして説明することになった。
結果として、それはトビアス自身に大きな変化をもたらした。「なぜ割れたのか」を言語化することで、彼自身が自分の作業の癖を客観視し、次の裁断や梱包で事故を防ぐ意識が格段に高まっていったのだ。
補修を終えた窯は、六十九日目から七十二日目まで乾燥に取り、火入れは七十二日目の夜と決めた。
その数日間のうち、交替で休む日の午後。
エリンは貸し設備に含まれていた小さな細工用炉に火を点けた。主窯とは別に、少量の端材を温め直すための炉だ。
溶かしたのは、売り物にならない色付き硝子の廃材だ。
エリンはそれを細い鉄の棒で巻き取り、母の形見だった『銀の髪留め』の百合の意匠を思い出しながら、小さな硝子の髪飾りを試作してみた。
だが、記憶の中にある滑らかな曲線を硝子で再現するのは難しく、出来上がったものは花びらが不格好に歪んでしまった。
「……まだまだね」
エリンは苦笑し、誰にも見られないように、その試作品を作業台の引き出しの奥へ隠した。母の髪留めを売って作ったこの工房は、少しずつ軌道に乗り始めている。いつか、自分で納得のいく美しい飾りが作れるようになればいい。
七十日目の夜。
エリンが一人、作業台でヨナが書き溜めた不格好な字の記録の束を清書していると、静かな工房に足音が近づいてきた。
「夜遅くまでご苦労だな」
工房の片付く時刻を尋ねてから訪れた、ルシアンだった。彼はエリンが破片の番号と欠陥の理由を帳簿に書き写しているのを見ると、「手伝おう」と言って向かいの席に座った。
「私が番号札を読み上げる。あなたは書き写すことに専念するといい」
「いいのですか? 領主様にそんな雑用を」
「構わん。私もこの記録には興味がある」
彼は真剣な顔で、ヨナが破片に括り付けた木札を取り上げた。
「ええと……次は『九番』の破片。右端から五センチのところに亀裂」
エリンは帳簿にペンを走らせようとして、ふと手を止めた。
「フローレン卿。九番の破片は、先ほど記録しましたよ?」
ルシアンは「ん?」と眉をひそめ、手元の木札を裏返したり、角度を変えたりして見つめ直した。
「……すまない。見習いの字の癖が強くてな。上下が逆だった。これは『六番』だ」
あまりにも真面目な顔で言い訳をするルシアンがおかしくて、エリンは思わず「ふふっ」と声に出して笑ってしまった。
ベラの作業小屋でも笑ったことはあった。けれど今は、向かいに彼しかいない。そのことに気づくと、遅れて頬が熱くなった。
ルシアンも自分のミスに気づいて肩をすくめ、小さく笑った。
「領主でも見習い以下ですね。数字の読み間違いは致命的だ」
「ええ。減給ものですよ、フローレン卿」
エリンたちは仕事の緊張を離れ、柔らかく親密な夜の時間を共有した。
だが、その和やかな空気は、翌日のヨナの言葉によって引き締まることになる。
七十一日目。
記録作業にすっかり慣れたヨナが、分類した破片の山を前に、不思議そうな声を上げた。
「親方さん。これ、ちょっとおかしいです」
「どうしたの、ヨナ」
エリンが歩み寄ると、ヨナは温室へ運ぶ際の輸送事故で割れた二枚分の破片と、試運搬用に残した端材を、机の上に並べてみせた。
「この二枚、箱の同じ側から出ていますよね。試しに運んだ端材も、同じ側の角だけ擦れています」
エリンは二枚の出荷番号と、試運搬の記録を並べた。
ヨナの言う通りだった。二枚の割れの起点と、端材に擦れの出る位置が、進行方向の同じ側に偏っている。
二枚は旧い箱の中で割れた。縦置き枠に替えてから新しい割れは出ていないが、試しに運んだ端材には擦れが残っている。
梱包だけを直しても、まだ偏った力を受けているのかもしれない。




