第20話 親方が窯を止めた日
退職から六十六日目。
外は厳しい霜と冷え込みが続いていたが、霜灯硝子工房の中は、絶えず燃え続ける窯の熱気で満たされていた。
学校の育苗室の換気窓と、宿屋街からの補修窓の依頼。二つの案件が同時に動き出したことで、エリンたちの小さな工房はかつてないほどの稼働率に達していた。
「親方、昨夜の冷却の記録です。今日は追加投入を止めたままでいいですね」
「ええ。昨日の異音の原因がわかるまで、増やせないわ。トビアス、冷えた板の切り出しだけ進めて」
「問題ありません。ただ、窯の熱がいつもより少し高く感じますが」
その時だった。
窯の火の番をしていたマルタが、ピタリと動きを止めた。彼女は耐火煉瓦の壁に耳を澄ませるように近づき、持っていた鉄の棒で壁面を軽く叩いた。
鈍く、こもったような異音が響いた。
「……親方」
マルタの声は低く、だがはっきりとした緊迫感を帯びていた。
「……やはり底です。昨日より響きが短い」
エリンはすぐさま作業を止め、マルタの横へ歩み寄った。彼女の指示で点検口から炉の底部を覗き込むと、長年の休眠とここ最近の酷使により、窯の底を支える耐火煉瓦の一部に新しい欠けと、深く入り込んだひび割れが生じているのが見えた。
「これは……このまま温度を上げ続ければ、底が抜けます」
マルタがエリンを見た。その目には、以前エリンが納期を優先して無茶な火入れを提案した時に見せた、あの冷たい光はない。ただ、職人としての確固たる判断だけがあった。
「親方。窯を止めます」
それは、エリンが彼女と交わした約束の行使だった。
王都を出る時、「無茶な火入れを命じられたら窯を止める」という彼女の条件を、エリンは受け入れた。あの『安全停止権』は、決して口約束などではない。
「ええ。昨日から見てくれてありがとう。ここで止めましょう」
エリンは一切の躊躇なく頷いた。
「窯が破裂して誰かが怪我をする前に気づけて、本当によかったわ。すぐに火を落として」
マルタは大きく息を吐き出すと、稼働中の窯の前に、あらかじめ用意してあった『作業停止』と書かれた木札を掛けた。
だが、窯を止めるということは、ただ火を落とすだけではない。
完全に冷ましてから補修し、再び規定の温度まで上げるには数日の空白ができる。学校の製造と取り付けを組み直し、宿屋の急ぎ仕事は、別の手を探さなければならない。
エリンはエプロンを外し、すぐに帳簿と契約書を掴んだ。
「トビアス、マルタさん。窯の冷却と補修の手配をお願い。私は、お客様のところへ謝罪に行ってきます」
エリンは町へ走り、まずは学校の教師に状況を説明した。
「安全上の理由で窯を止めました。製造の予定がずれるため、取り付けの日程を相談させてください」と包み隠さず申告すると、教師は授業の予定を確かめ、「取り付けの予備日を一日ずらしましょう。最終の八十日目は守れますか」と尋ねた。エリンは工程を組み直し、その日なら守れると書面に記した。
だが、宿屋街の急ぎの注文はそうはいかない。
エリンは宿屋の主人たちに頭を下げ、一部の注文の辞退を申し出た。
「こちらの不手際で、お約束の期日までにすべてを揃えることができなくなりました。急ぎで窓を塞がなければならないお部屋の分は、どうか他の業者へご依頼ください」
預かっていた急ぎ仕事の手付金は、運転資金とは分けていた袋から全額返した。これは、まだ正式契約前の宿屋街四十枚とは別の、小口の依頼だ。
炉の補修と、別業者への差し替えを手伝う費用。その持ち出しは、合わせて十八枚になった。
宿屋主は金を受け取っても、すぐには笑わなかった。
「返してもらえば、空いた部屋が埋まるわけじゃないんだ」
「はい。今日中に来られる業者を、二軒当たります」
エリンは名前を聞き取り、もう一度町へ出た。
六十七日目。
窯の火が落ち、本来の冷たさを取り戻した工房に、領主ルシアンが姿を見せた。
「……聞きました。宿屋の注文を辞退し、前金を返したそうですね」
ルシアンは、静まり返った窯の前に立つエリンを見て言った。
エリンは布で道具を拭きながら、静かに頷いた。
「はい。窯の底に危険なひびが見つかり、窯番のマルタさんが停止権を行使しました。私はそれを承認し、納品できない責任を取っただけです」
ルシアンは、冷えた耐火煉瓦の壁を見つめた。
エリンが返金の控えをしまおうとすると、何枚かが床へ落ちた。
ルシアンは黙って拾い、順番を尋ねてから、一枚ずつ手渡した。
エリンは差し出された控えを受け取った。指先に力が入りすぎて、紙の端が曲がっている。
ルシアンは、残った一枚を机へ置いたまま待っていた。急かされないとわかると、エリンはようやく紙を揃えられた。
「ありがとうございます。……補修と乾燥を確かめてから、再び火を入れます」
エリンが顔を上げると、彼も微かに頷き返した。
翌六十八日目。
完全に冷めきった窯の底を補修するため、エリンとマルタが準備をしていると、工房の入り口からひょっこりと顔を出した者がいた。
「あのう、親方さん」
そこに立っていたのは、エリンたちが最初にこの窯を修繕した時、手伝いに来てくれていた地元の小さな石工見習い、ヨナだった。十九歳になる彼は、もじもじと手に持った石工用のハンマーを弄りながら、エリンを見た。
「俺、石の切り出しや補修なら少し手伝えます。それに、親方さんたちが真剣に硝子を作ってるのを見て……俺も、ここで働いてみたいんです。雇ってもらえませんか?」
突然の申し出に、エリンは目を瞬かせた。
だが、窯の補修と今後の増産を考えれば、人手は喉から手が出るほど欲しい。
石工の仕事ができても、硝子を扱う手順は別に教えなければならない。
経験不足の若者を、一歩間違えれば大怪我に繋がるこの危険な工房に、どう迎え入れるべきか。エリンはマルタとトビアスを見やり、小さく息を吸い込んだ。




