第19話 薪を盗んだ暖かさはいらない
退職から六十二日目。
北の地は、いよいよ本格的な冬の牙を剥き始めていた。
朝からどんよりとした雲が垂れ込め、夕方になると、空気そのものが凍りつくような強い冷え込みがグラナの町を襲った。
エリンは領主農園の温室を訪れ、木枠の緩みや結露の再確認といった、硝子の定期点検を行っていた。
「……まずいな。予想以上に夜の冷え込みが厳しい」
小暖炉の前にしゃがみ込んでいた園丁長のベラが、薪の残量を見て焦ったように呟いた。
「どうしたんですか、ベラさん」
「初霜からこっち、室温を維持するために薪の消費が激しすぎるんだ。農園の裏手に積んである備蓄だけじゃ、次の輸送便が来る前に底を突いちまう」
エリンは温室の隅から隅まで硝子の状態を確認し、ベラの方へ向き直った。
「私の硝子は、契約通りの強度と密閉性を保っています。ですが、この温室の設計上、暖房なしではあの苗を守ることはできません」
ベラは夜布の記録を、エリンは取付点検の控えを机へ出した。窓の隙間を塞ぐだけで補える不足ではなかった。
翌六十三日目。
農園の管理小屋で、緊急の燃料調達を巡る協議が開かれた。
領主のルシアン、家令のアデル、園丁長のベラ。そして、地域の小作人を代表するローデ村のイザという年配の女性が呼ばれていた。エリンも、硝子と取り付け状態を点検した職人として同席を求められた。
「農園の今年の予算は、すでに温室の建築と苗の確保で限界まできている。これ以上の追加支出は厳しい」
アデルが分厚い帳簿を開き、苦渋の表情で提案した。
「緊急措置として、町の広場に備蓄されている『公共薪』を、一時的に温室へ優先配分してはどうだろうか。あそこで苗を守りきれれば、春には村々へ利益として還元できるのだから」
公共薪とは、冬の間に自力で燃料を買えない貧しい住民に配るための、町の共有財産だ。転用するなら住民側の承諾が要り、農園の判断だけでは動かせない。
「ふざけるな!」
バンッ、と机を強く叩いたのは、ローデ村の代表であるイザだった。
彼女は机の端を握り、真正面からルシアンを見た。
「また領主が一人で薪を決めるのか! 二年前のように、私たちの冬を奪って、自分の農園を守るつもりか!」
管理小屋の空気が凍りついた。
イザは二年前にも、同じように帳簿の向こうで決められた、と続けた。ルシアンは目を逸らさず、彼女の言葉が終わるまで待った。
「……イザ殿の言う通りだ。公共の財産である薪を、私有の農園に転用することは許可しない」
ルシアンはアデルの提案を明確に退けた。
「不足分の薪は、私有農園の収益から……私の裁量で動かせる予算から購入し、他地区からの輸送を手配する」
「それでは、今季の設備買い増しを諦めて、営農部門の余裕資金を燃料へ回すことになります」
「農園の勘定で負担する。設備の追加は来季へ延ばそう。公共薪は、必要とする住民の分として残す」
イザは農園負担の記載を確かめ、公共薪の配布予定を変えないよう念を押した。
アデルが、設備の発注予定に取り消しの線を引いた。ルシアンは、その欄を見届けてから次の話へ進んだ。
エリンは自分の点検票へ目を戻す。書くべきことはもう済んでいるのに、しばらく、ペンをしまえなかった。
「輸送便が到着するまでは数日かかる。その間の緊急用は、私の屋敷の備蓄から削って農園に回す。ベラ、それで凌げるか」
「……はい、領主様。なんとか保たせます」
六十五日目。
グラナの町に、初霜の時よりもさらに強い、本格的な霜が降りた。
ルシアンが手配した薪を積んだ輸送便が、この日の夕方にギリギリで農園へ到着した。
夜の猛烈な冷え込みの中、領主家の農園勘定で買った薪が小暖炉で絶えることなく燃え続け、厚い夜布と六十四枚の硝子に守られた試験苗たちは、無事にこの過酷な夜を越えた。
「これで、当面の山は越えましたね」
エリンは農園からの帰り道、凍てつくような夜空を見上げながら、ほっと白い息を吐いた。
学校の試し窓も、農園の温室も、今のところ問題なく機能している。少しずつ増えてきた一般客からの修理依頼にも、しっかり応えていけるはずだ。
だが、安堵は長くは続かなかった。
エリンが霜灯硝子工房へ戻ると、窯の前に立っていたマルタが、険しい顔でエリンを振り返った。
「親方」
マルタの声は、冬の風よりも冷たく硬かった。
「窯の底が、変な音を立てました」
農園の危機を乗り越えた直後。今度はエリンたちの工房の心臓部である窯が、限界の悲鳴を上げていた。




