第18話 守るのは板ではなく、苗
学校の育苗室では、既存の窓を伝った水が、苗床の隅へ落ちていた。
契約前の最終確認に来たエリンは、見積書をいったん閉じた。五十八日目。今日、二十四枚の製造に着手できれば、八十日目の納品に間に合う。
「ここを先に見ていただきたくて」
教師が受け皿を持ち上げる。昨日置いておいたという皿には、指先ほどの水が溜まっていた。
「窓を替えれば、止まるでしょうか」
トビアスが木枠の下へ顔を寄せる。板の縁だけでなく、下桟に触れ、戸を少し開いた。
「受けが室内へ傾いています。板だけ新しくしても、同じところへ落ちますね」
彼は短い定規を当て、エリンに角度を示した。
納める硝子は、まだ一枚も焼いていない。今なら、切り方と取り付け方を揃えて変更できる。
「木工の方に、見てもらえますか。私たちの見積にも関わります」
「では、呼んできます」
教師が出ていくと、トビアスは見積書を覗いた。
「枠まで直すなら、この値段じゃ受けられませんよ」
「ええ。勝手に直して、後から請求もできないわ」
工房を続けるには、困っている人を見るたびに自分の取り分を消すわけにはいかない。
けれど、板の仕事ではないからと帰ったら、何のためにこの窓を入れるのかわからなくなる。
エリンは余白に、二本の線を引いた。
木工班が直す下桟。その修正に合わせて、霜灯が採寸し直す板。担当と費用を分けて書く。
自分たちの分は、見積もりに取っておいた調整時間で収められる。追加の木工費は、学校へ確認する必要がある。
戻ってきた教師と木工職人に図を見せると、職人は頷いた。
「受けを外へ向けて、排水の道を残そう。ただ、板の縁をどこまで下げるかは、そっちで決めてほしい」
「ここです。外した時に入れ替えやすい余裕も残したいので」
「その幅なら、削る場所はこっちだ」
二人で定規を動かす。トビアスがその数字を、一つずつ見積の写しへ書き足した。
学校は小さな木工の追加費を承認し、変更後の仕様で硝子二十四枚を正式に発注した。総額は百二十枚、着手金四十八枚。残り七十二枚は八十日目の検収後に受け取る。
「では、まず一枚、試しにはめさせてください。同じ寸法のものを揃える前に、水の行き先を見たいんです」
翌日、試し用の板を入れた枠に教師が水を少し流した。
下桟の受けを伝い、外の土へ落ちる。苗床へはこぼれない。
子どもたちが窓の前へ集まってきて、落ちる水を見て歓声を上げた。
「窓にも雨樋があるんだ」
「小さいけれど、同じようなものね」
エリンが答えると、ひとりの子が、窓の下へ鉢を置いた。
「じゃあ、ここでも育てていい?」
教師が笑って頷く。
その小さな鉢の置き場所まで、自分の仕事で変わるのかと思った。
窯の前で数えていたのは、枚数と銀貨ばかりだった。けれど、ここで待っているのは、二十四の穴を埋める板だけではない。
廊下で話を聞いていたルシアンが、教師へ会釈して近づいてきた。今日は学校の冬の修繕状況を確かめに来たのだという。
エリンはつい、五日前に市場で言われた言葉を思い出した。
――私は戻ってほしくない。
彼はいつものように、ヴァイス職人、と呼んだ。
それだけで少し落胆して、自分に呆れる。
「窓を替える前に、課題が見つかったようですね」
「はい。板だけで解決するとはお約束できませんでした」
「その一枚は、試し用ですか」
「ええ。まだ本納品ではありません。先生と木工班に、水の流れまで確認してもらっています」
ルシアンは図面を見て、それから窓辺の鉢へ目を移した。
「楽しみに待っている人がいるのですね」
「今、私もそれを知ったところです」
彼が笑ったので、エリンも少し笑った。
市場での言葉の続きを尋ねるには、子どもたちの目が多すぎた。
六十一日目には、別の宿屋三軒から照会が来た。
嬉しくて、すぐに返事を書こうとする。だが、トビアスが予定表を手元へ寄せた。
「親方、二十四枚を入れる時間も残してくださいよ」
エリンはペンを止め、余白の日を数え直した。
***
学校から戻る馬車の中で、ルシアンは窓の外を見ていた。
修繕費の確認なら済んでいる。だが、頭に残るのは、硝子の前へ小さな鉢を置いた子どもを、エリンが見ていた顔だった。
自分の提案が認められた時より、嬉しそうだった。
失敗を報告した日に見せた緊張と、今日の笑み。その両方を知ってしまうと、工房へ用事を作りたくなる。
「次は領主館へ戻りますか」
御者の問いに、すぐ答えられなかった。
工房へ寄る理由を探しかけている自分に気づいたからだ。
「戻ろう。今日は、もう視察は終わった」
学校では、木工の費用を誰が負担するか、彼女はきちんと問い直していた。親切のために何もかも引き取ろうとはしない。
それなのに、自分は彼女が困れば、何でも引き取ってしまいたくなる。彼女が欲しいと言ったわけでもない助けを。
戻ってほしくない、と言った時、エリンは返事をしなかった。
領主にそう言われたら、断りにくかっただけかもしれない。そう思うと、胸の奥が冷えた。
彼女の答えを、自分の地位で決めてしまいたくない。
けれど、何も言わずに待っていればいいわけでもないのだろう。
馬車が学校の角を曲がり、窓辺の鉢が見えなくなる。
ルシアンは、彼女が次に自分から話しかけてくれる時には、その理由が注文でなくてもいい、と考えた。




