第17話 値段の安い硝子が来た
退職から五十三日目の朝。
グラナの市場の掲示板の前に、人だかりができていた。
「おい、見たか。王都から来た商人の広告を」
「窓硝子が一枚でこの値段だって? うちの木枠に合うなら、冬の前に買っておきたいな」
人々の声を背に聞きながら、エリンはその真新しい紙の束を見上げた。
そこには、見覚えのある流麗な飾り文字でこう記されていた。
『王都製規格窓硝子、格安価格で卸します。銀樹硝子工房』
地元では考えられないほどの低価格だった。
それは、父とレオンが王都の特殊注文市場を失った後、量産した規格の薄板を北へ大量に持ち込み、広域卸売として仕掛けてきた露骨な価格競争の証だった。
「……親方。これじゃ、うちの値段の半分以下ですよ」
付き添っていたトビアスが、焦ったように声を潜める。
「ええ。寸法と厚みを揃えて大きな窯でまとめて作れば、安くできます。私たちの規模では出せない値段ね」
エリンは冷静に広告を見つめ返した。
だが、この安さは確実に影響を及ぼし始めていた。
先日、農園の温室の噂を聞きつけて窓の修理の引合いをくれていた地元の学校の教師が、市場でこの広告を見てしまったのだ。
翌五十四日目。
エリンは学校の質素な応接室で、教師の前に二十四枚の換気窓の正式な見積書を提示した。
「見積の総額は、銀貨百二十枚。着手金として四十八枚を頂き、八十日目までに納品します」
教師は見積書と、手元にあるレオンの広告の写しを見比べ、困ったように眉をひそめた。
「……ヴァイス職人。あなたの腕の噂は聞いているが、王都の商人の品なら、もっと安く上がるはずだ。学校の予算も限られている。もう少し、この広告の値段に合わせてはくれないか」
予想通りの反応だった。
価格で張り合えば、仕事は取れるかもしれない。だが、無理な値引きは窯の燃料を削り、マルタやトビアスの給料を削り、最終的には品質を削ることになる。自分の首を絞めるような真似は、絶対にしないと決めていた。
「申し訳ありませんが、お値引きはお受けできません」
エリンは真っ直ぐに教師の目を見た。
「王都の規格品の薄板は、確かに安いです。ですが、古い学校の木枠は一つひとつ歪んでいます。枠を直すか、板を切り直す費用は別に必要です。そして、割れた時、王都から代わりの一枚を取り寄せるのに片道四日かかります。真冬になれば六日です。その間、子どもたちは冷たい風に吹かれることになります」
教師が、ハッとしたように顔を上げた。
「このお見積には、採寸と枠に合わせた調整、取り付けまでを含めています。割れた時も、地元で状態を確かめ、仮塞ぎと交換の段取りをつけます。製造不良は保証期間内なら無償、それ以外は原因を分けてお見積もりします」
エリンは見積書から手を離した。
「板の代金だけでなく、ここへ納める加工と、その後の対応まで含めて比べていただけますか」
学校を後にした帰り道。
グラナの市場の裏手で、見慣れた荷車が停まっているのが見えた。王都から来た旧銀樹の荷車だ。
そして、その荷車の前で、懐の深い外套を着たレオンがエリンを待ち構えていた。
「相変わらず、強気な商売をしているようだな、エリン」
レオンは冷たい笑みを浮かべ、エリンの前に立ち塞がった。
「オルデン氏。この町はあなたの卸売の範囲にも入ったのですね」
エリンは歩みを止めず、ただ冷ややかに彼を見返した。
「意地を張るな。おまえの小さな窯で、うちの価格に勝てるわけがないだろう。今ならまだ間に合うぞ」
レオンは一歩近づき、まるで恩着せがましい口調で言った。
「うちの規格品を北で売る下請けになれば、もう一度、婚約を考え直してやってもいい」
彼はまだ、自分が優位に立っていると思い込んでいるのだ。エリンが王都の庇護を失い、泣きついてくるのを待っていたのだろう。
「お断りします」
エリンは一切の躊躇なく、彼を突き放した。
「工房の販路は私が決めます。婚約を、卸契約の条件になさらないでください」
「……強がるのも今のうちだぞ。おまえの客が全員、うちの安さに流れてから泣きついても遅いからな」
レオンが忌々しげに顔を歪めた、その時だった。
「――道の真ん中で、何か面倒事か?」
低く響く声とともに、偶然通りかかった領主ルシアンが現れた。
彼は二人を見て足を止め、返事を待った。
「いえ、昔の知り合いと少し話していただけです。失礼するよ、エリン」
レオンはルシアンの姿を見ると、露骨に舌打ちをして荷車の方へと去っていった。
二人きりになった裏通りで、ルシアンはエリンを見下ろした。
彼はエリンが学校で価格の競争に晒されていることも、レオンが旧工房の人間であることも知っているはずだった。
「……王都の商会と、手を組むのか」
ルシアンの問いに、エリンは首を振った。
「いいえ。私は私の値段で、私の品質を売ります。選ぶのはお客様ですから」
ルシアンは少しの沈黙の後、エリンの目を見つめて言った。
「決めるのはあなたです。……ただ、私は戻ってほしくない」
どういう意味で、と尋ねればよかった。けれど、ルシアンが口を結んでしまうと、エリンも次の言葉を見つけられなかった。
エリンは胸の奥が熱くなるのを感じながら、ただ無言で彼に頷き返した。
五十七日目。
学校の委員会から、見積採用の通知が届いた。翌日に現場の最終確認をして契約する、という。
『冬の修理日数の短さと、安全性を評価し、霜灯硝子工房の見積りを採用する』
価格の安さよりも、地元の工房としての責任と保証を選んでくれたのだ。
だが、市場ではレオンの持ち込んだ格安の規格品が、規格寸法の新しい枠を持つ店には売れていく。誰もこの競争を止められないまま、エリンたちは自分たちの価値を証明する戦いへと進んでいくしかなかった。




