第16話 硝子は冬を追い払わない
昼の温室へ入ったエリンは、外套を脱ぐ間もなく、ベラに西側の窓を指された。
「そこを開けて。東側だけじゃ追いつかない」
日が雲から出た途端、室内の温度が上がり始めたのだという。ベラはすでに屋根の換気口を開き、苗床の上に薄い遮光布を広げていた。
エリンが金具を外すと、冷たい風が足元を通った。葉がわずかに揺れる。
「これくらい開けば、風が直接苗へ当たらずに通りますね」
「午後はそうだね。でも午前中は、屋根の口だけで足りる。人がずっとここに張り付けるわけじゃないから、誰が当番でも迷わないようにしたい」
ベラの日誌には、時刻と気温、窓を開いた幅が細かく残されていた。昨日の試運転から、何度も書き直したらしい。
エリンは図面の余白に、金具の位置と開き方を描いた。
「この留め金に二段目の穴を作れませんか。手を離しても、半分で止まるように」
「木工班に相談します。苗をどけなくても、外から作業できる場所です」
初めて会った日に、二人で赤線を引き合った図面が、今度は同じ向きに置かれている。
完成したら終わりだと思っていた窓にも、まだ直せるところがあった。
夜は、違う調整が必要だった。
暖炉へ入れる薪を増やす前に、ベラが苗床の下を確かめる。厚い布を掛けた場所と、その端に近い場所では、冷え方が違っていた。
エリンは二重扉の下へ細い糸を垂らした。揺れていない。
「入口からの風ではなさそうです」
「なら、夜布の合わせ目だね。昼に邪魔になると思って、端へ寄せすぎた」
支えの位置を変え、布を重ね直す。
エリンは硝子の工房主で、ベラは苗の管理者だ。二人で同じ場所を見ても、気づくことは違った。
「窓を増やせば、薪をもっと減らせると思っていました」
様子を見に来たルシアンが、小暖炉の前で言った。
ベラは日誌を閉じずに答える。
「昼の光は増える。でも夜に必要な薪まで、なくなるわけじゃない。買い足す判断は早めに頼むよ」
「記録を見せてください。今の備蓄で何夜もつか、アデルと計算し直す」
誰かが失敗を隠す前に、困っていることが机に載る。
エリンはその会話を聞きながら、図面の端に小さく日付を書いた。
退職から五十二日目の朝、町に初霜が降りた。
苗床を覆う布を取る時、ベラの指が少しだけ止まった。
外では地面が白くなっている。室内も、人が薄着で過ごせるほど暖かくはなかった。けれど、布の下の葉は、張りを残して立っていた。
「……こっちは傷んでない」
ベラが葉の裏を確かめ、別の列も見る。
エリンはしゃがみ、葉へ触れる前に手を止めた。硝子のように持ち上げて検査するわけにはいかない。
隣に屈んだルシアンも、同じように指を浮かせていた。
「触っていいよ。葉を折らない程度なら」
ベラに言われ、二人でそっと土へ指を当てた。
冷たい。だが、硬く凍ってはいない。
「生きていますね」
「ああ」
ルシアンは頷き、ベラに向き直った。
「夜番の人たちにも伝えてください。皆で守れた、と」
エリンの硝子だけが苗を生かしたのではなかった。それでも、六十四枚の一つ一つが、この朝につながっている。
窓越しに入る光を見上げると、胸の奥にようやく温かさが広がった。
作業小屋で分けた焼き菓子は、片側だけ少し焦げていた。
ベラが火から離れられなかったせいだという。
「焦げていない方をどうぞ、フローレン卿」
エリンが皿を差し出すと、ルシアンは焦げた端を取った。
「私はこれで。領主館では、いつも同じ形のものしか出てこない」
「焦がしてほしければ、そう言えばいいのに」
ベラが真顔で返し、エリンは吹き出した。
笑った拍子に、ルシアンがこちらを見た。菓子の欠片が口の端に付いている。
教えるか迷っているうちに、ベラが布を投げて寄越した。
「閣下、顔」
「……ああ」
受け取る手まで真面目で、また笑いたくなる。
エリンは、自分がもう一つ菓子を取ろうとしていることに気づいた。ここへ来てから、食べるのを忘れないで済んだ朝は初めてだった。
昼前、町の学校の教師が作業小屋を訪ねてきた。
薬草や葉菜の育て方を子どもに教えるため、小さな育苗室を直したいのだという。
「宿屋の窓を見ました。今度は、うちの古い枠も見てもらえませんか」
エリンは、食べかけの菓子を置いた。
領主の温室の評判に加え、八枚の最初の仕事を、町の人が覚えていてくれた。




