第15話 温室の屋根に最後の一枚を
退職から三十六日目。
エリンは工房の机に、昨日組合から届いた王城納品完了の報告書と、温室用小板六十四枚のうち、これから仕上げる分の工程表を並べて置いていた。
エリンは報告書を畳み、工程表だけを手前へ残した。
「私は私の名前で、最後まで納める」
エリンは工程表を手に取り、決意を口にした。
目標は、四十五日目までに残り半分の三十二枚を農園に引き渡し、最終検収を通過して残額の銀貨六十枚を受け取ること。それが完了して初めて、この工房は本当の意味で立ち上がることができる。
三十八日目の午後。
領主農園の温室建設現場は、焦燥感に包まれていた。
アデルが木工班の責任者と、未施工の面を数えていた。
急な冷え込みの予報が出ている。今日塞げると思っていた屋根の一角に、まだ桟の調整が残っていた。
「こちらは幅が合いません。削り直してから、もう一度板を当てます」
職人がエリンを呼んだ。はしごに登って見ると、桟が一本、内側へ反っている。
「この当たりを残すと、割れの起点になります。削ったあと、両側の隙間も測らせてください」
「それなら、この列の据付は明日まで掛かる。先に塞ぐ順を決めたいんだが」
エリンは屋根を見渡した。全部を急いで閉じれば、夜は楽になる。けれど、確認しないまま板を入れれば、その内側へ苗を置いてよいとは言えなくなる。
「今日は調整を終えた面から納めましょう。残る列は明日、私が一緒に確認します」
アデルが工程表へ二本の線を引いた。
「二日に分けるなら、今夜塞げない面の夜布が足りるか、ベラと確かめます。木工班には、仮の支えも頼めますか」
「布の支えなら、余った材で組めます。板を入れる列とは分けますよ」
話を聞いていたルシアンが、はしごの下へ来た。
「二年前、私は現場に聞かずに決めました。今日は聞いてから決めたい。ベラ、今夜の苗はどこへ移せますか」
ベラは北側の苗床を指した。
「一晩なら、あちらへ寄せられる。布は足りるよ。ただ、運ぶ人と夜番を増やしてほしい」
「その費用は農園で持ちます。アデル、変更と必要な人数を記録してください」
アデルが頷き、木工班の責任者へ仮支えの位置を尋ねた。
エリンははしごを下り、ベラと苗箱を動かした。明日の検査のために、今夜誰が何をするかまで決まっていく。
ルシアンも外套を脱ぎ、空いた箱の取っ手を持った。
翌日、修正した桟に板が収まった。ベラが夜布を片付ける横で、エリンは留め具を一つずつ確かめた。
そして、四十五日目の朝。
ついに、南側の屋根に最後の一枚――六十四枚目の硝子がはめ込まれた。
「……完璧だ。隙間風一つない」
温室の中から木枠を点検していたベラが、感嘆の声を漏らした。
アデルがすべての検収項目をチェックし、最後に契約台帳に検収印を強く押し込んだ。
「これにて、全数検収完了。温室用小板六十四枚、たしかに受け取った」
アデルから手渡された革袋には、残額である銀貨六十枚が収められていた。これで、契約総額三百枚の回収がすべて終わったのだ。
その日の午後、エリンは工房へ戻り、マルタとトビアスを呼んだ。
「二人とも、本当にお疲れ様。これで契約は完了よ。はい、これ」
机の上には、二人の名を書いた封筒がある。
「次の給料は六十日目。その二十四枚は、もう取り置いてあります。これは確認の控えです」
マルタが、封筒を開けずに確認印を押そうとして、手を止めた。
「工房のお金、あとで足りなくなりませんか」
「自由に使える分は百三十枚。こちらと混ぜずに次の仕事を考えます」
マルタは頷いて印を押した。今度はエリンも、何も隠さずに残高を見せられた。
トビアスは確認の控えを丁寧に折り、妻からの手紙と同じ袋へしまった。
「次も、同じ日に送れますね」
そう言われ、エリンはようやく笑えた。工房を開いてから、ずっと先へ走り続けていた気がする。今日は一度、立ち止まってよい日だった。
その日の夕暮れ。
エリンはルシアンの使いに呼ばれ、完成したばかりの温室へと足を運んだ。
誰もいない温室の中で、ルシアンが一人、硝子越しの夕日を見つめていた。
「フローレン卿。お呼びでしょうか」
「ああ。温室の完成祝いだ」
彼が振り向く。だが、彼の手には花束も、高価な宝飾品もなかった。
彼はただ、検収を終えた硝子の壁を手で示し、真っ直ぐにエリンを見た。
「明日は朝から、初霜への備えを確かめる。ベラが昼と夜の手順を試すので、あなたにも立ち会ってほしいのだ」
「……喜んで」
エリンは彼に並んで立ち、夕日に赤く染まる温室の屋根を見上げた。
ふと視線を下げると、エリンたちが作り上げた透明な六十四枚の硝子に、エリンとルシアンの姿が静かに並んで映り込んでいるのが見えた。
触れ合う距離ではない。だが、はっきりと、エリンたちは同じ枠の中に立っていた。
初めて、エリンは彼という存在を、仕事相手以上の何かとして強く意識した。胸の奥が、夕日とは違う熱でじんわりと温かくなる。
「――二人とも、そこ、通して!」
その時、温室の扉が勢いよく開き、ベラが駆け込んできた。
「来週は霜が降りる見込みだよ。今夜から、布と換気の手順を試す。そこの金具を確かめておくれ」
ベラが金具の前へ屈み込み、二人も道を空けた。
温室が本当に仕事をするのは、寒くなってからだ。そしてエリンは、硝子だけでは決して冬を追い払えないという現実を、誰よりもよく知っていた。




