第13話 三十二枚、代金百二十枚
基準の枠に、検収前の確認をする最後の一枚が静かに収まった。
三十日目の朝。霜灯硝子工房の作業台で、エリンは完成した温室用小板の最後の全数検査を行っていた。
寸法確認用の木製の標準枠に板をはめ込み、ガタつきがないか確かめる。続いて光に透かして気泡や亀裂を確かめ、最後に縁の欠けがないかを指先でなぞる。
「……よし」
エリンは短く息を吐き、最後の一枚の端に、小さな『霜灯』の出荷印を押し当てた。
「やりましたね、親方。三十二枚と予備、揃いましたよ」
隣で見ていたトビアスが、肩の力を抜いて笑った。マルタも窯の火を確かめながら、ほっとしたように目尻を下げる。
銀貨十八枚という、いつ底を突いてもおかしくない資金繰りの中で、エリンたちは不良品を出すことなく、第一ロットの三十二枚を揃えたのだ。二十日目から焼き始めたやり直し分は、火番の交替を守りながら、冷えたものから順に検査へ回してきた。
「ええ。二人とも、本当にご苦労様」
エリンは積み上がった硝子板を見つめた。
「でも、本当の勝負はここからよ。これを無事に農園へ運び、木枠にはめ込んで『検収』を通過するまでが私たちの仕事だから」
装飾窓を別の業者へ頼んだという旧顧客の返事も、その朝届いた。二十二日目に出した手紙が王都へ着き、返事が戻るまでの八日間で、こちらも板を揃えられた。エリンは便箋を畳み、納品票を取った。
その日の午後。
領主農園の温室建設現場に、エリンたちは三十二枚の板と数枚の予備板を持ち込んだ。
冷たい秋空の下、領主ルシアン、家令のアデル、そして園丁長のベラが立ち会う中で、木工班の職人たちがエリンたちが持ち込んだ硝子を一枚ずつ木枠にはめ込んでいく。先日、エリンが隙間風を指摘して直させた、あの木枠だ。
「寸法はぴったりだ。隙間もないぞ」
ベラが木枠の裏から手をかざし、風が止まったことを確認して嬉しそうに頷く。
作業は順調に進み、温室の南面が次々と透明な硝子で覆われていった。
だが、三十枚目の板をはめ込もうとした時だった。
「ん? 少しきついな。おい、もう少し強く押し込んでみろ」
木工班の一人が、硝子の縁を手のひらで叩いて無理に木枠へ押し込もうとした。
「待って! そのまま押し込まないで!」
エリンは慌てて止めに入り、彼の手から硝子板を受け取った。
木枠の該当箇所を指先でなぞると、ほんのわずかだが、支柱の木材が反って膨らんでいる部分があった。ミリ単位の微差だが、硬い硝子はその歪みを許容しない。
「枠の支柱が少し反っています。無理に入れれば、硝子の角が枠の圧力に負けて欠けます」
「しかし、このままじゃ入らないぞ」
「板を替えます。これは予備の甲番」
エリンは迷わず、少し寸法に余裕を持たせて切ってあった予備の板と差し替えることを決定した。そして木工職人に向き直る。
「板は替えますが、枠の膨らみも少しだけ鉋で削って調整してください。硝子に圧力がかからないように」
エリンの指示に、木工職人は一瞬アデルの方を見た。アデルが小さく頷くと、職人はすぐに鉋を取り出して枠の調整に取り掛かった。
問題のあった三十枚目の板は、持ち帰って別の枠用に切り直せばいい。ここで意地を張って無理にはめ込み、後で割れるリスクを残すことこそが、最も愚かなのだ。
そして三十一日目。
すべての修正と微調整が終わり、三十二枚の硝子が木枠へ無理なく収まった。
温室の南面の半分が、秋の陽光を反射してきらきらと輝いている。内部には、まだ板の入っていない半面からは風が入る。それでも、閉じた側の隙間風は止まった。
アデルが契約書と手元の検収票を細かく照合し、最後に一度、全体を見渡した。
「寸法、透明度、はめ込み精度、すべて問題なし。……契約に基づき、第一ロット三十二枚の中間検収を完了とします」
アデルが帳簿に検収済みの印を押し、エリンに向かって重い革袋を差し出した。
「進捗代金の、銀貨百二十枚だ。たしかに」
受け取った革袋はずっしりと重かった。
手持ちの資金が銀貨十八枚まで減っていたエリンにとって、これはまさに命を繋ぐ血液だった。前日に別袋から二人分の給料を払ったあとも、運転資金の十八枚は残っていた。この百二十枚で、後半の輸送と次の仕入れに備えられる。エリンたちはようやく、資金の綱渡りから解放されたのだ。
「見事な仕事だ、ヴァイス職人」
ルシアンが一歩前に出て、公の場にふさわしい、領主としての威厳ある声でエリンを評価した。
「あなたの確かな目と腕が、こうして形になったことを嬉しく思う。職人として、見事な合格だ」
「ありがとうございます、フローレン卿」
エリンが深く頭を下げて顔を上げた時、ルシアンの視線が、ふと下がった。
公の言葉とは裏腹に、彼の視線はエリンの顔ではなく、エリンの手元――エプロンの前で重ねられた、エリンの指先へと向けられていた。
冷たい水で硝子を洗い、高温の窯の前に立つことを繰り返したエリンの指先は、ひどく赤くひび割れ、あかぎれの痕が痛々しく残っていた。自分でも気にしていなかったその過酷な作業の痕跡を、彼は痛むような目で見つめている。
「……冷やさないように」
誰にも聞こえないほどの低い声で、彼が微かに唇を動かしたのがわかった。
エリンは胸の奥が不意に熱くなるのを感じながら、ただ黙って、もう一度だけ彼に頷き返した。
工房へ戻ると、トビアスが送金の受領票を見せに来た。
「昨日もらった給料、妻へ送りました。約束した日に出せましたよ」
十二枚を渡した時は、受領印を押すだけだった。その手が、今日は何度も妻の名をなぞっている。
エリンは「届いたら教えて」と答え、ようやく椅子へ腰を下ろした。
「まずは食べて。残りの製造もあるでしょう」
マルタに渡されたパンは、火のそばで少し温めてあった。
だが、休む間はない。
翌三十二日目の朝。後半分のうち、先に仕上がった八枚を荷造りした。残り二十四枚は、四十三日目まで数回に分けて焼き上げる。三十二枚目の検査を終えたあとも炉は止めず、順に成形してあった分だ。
工房の前で、次の納品分を載せた荷車を見送る。
荷台には、トビアスが木くさびを打ち込んで固定した硝子の梱包枠が積まれている。
馬車が石畳の角を曲がり、荷台が小さく揺れた。
エリンは見送る手を下ろした。検査台を離れてからも、板が受ける力は変わり続ける。




