第11話 火を守るための数字
朝の冷え込みが厳しくなった二十二日目の早朝。
エリンは工房の片隅に置いた小さな机で、現金出納帳のページに赤い線を引いていた。
自由に使える運転資金は、銀貨十八枚。
給料の袋には手をつけない。材料と燃料、交替の火番も、中間検収までの分は支払い済みだ。けれど、もう一度まとまった不良を出せば、その先がない。
三十一日目に三十二枚を納め、百二十枚を受け取るまで、あと九日だった。
エリンは羽ペンを握り直し、小窯の一日分の炉心温度と、安全な冷却時間を逆算して、新しい生産表を書き上げた。
焦って増産すれば、また温度管理を誤って不良品を出す。無駄なロスをなくすための、確実で安全な数字だけを並べた表だ。
そこへ、王都の組合を経由して一通の書簡が届いた。
差出人は、エリンが銀樹で働いていた頃の旧顧客だった。裕福な商人向けの室内装飾を手掛けている男だ。
『エリン殿が独立されたと聞いた。実は急ぎで、色付きの装飾窓硝子が必要になった。多少高くても、前金でも構わない。君の腕で至急作ってくれないか』
手紙を読んだ瞬間、エリンの心臓が大きく跳ねた。
多少高くても前金で払う。その言葉は、今の干上がりそうな資金繰りにとって、喉から手が出るほど欲しい甘い誘惑だった。
だが、エリンは窯の方へ視線を向けた。
装飾用の色付き硝子を溶かすには、金属酸化物を混ぜ、今の透明な硝子とはまったく違う緻密な温度管理が必要になる。この小さな一つの窯で、温室用の透明な板と並行して作れるものではない。もし無理に受ければ、窯の温度が狂い、温室の納期を逃すか、再び大量の不良品を出すという致命的なリスクを伴う。
「……駄目ね」
エリンは小さく息を吐き、すぐさま返事の便箋を用意した。
『ご指名いただき光栄ですが、現在の設備と納期では、ご要望の品質と時期をお約束できません。温室の最終納品を終えてからであればお受けできますが――』
おそらく、急ぎの仕事である以上、彼はこの代替納期を待たず他社へ行くだろう。確実に目の前にある利益の機会を、エリンは自ら手放したのだ。
封をする前に、「前金でも構わない」の一行をもう一度読んだ。それから手紙を裏返し、返事の宛名を書いた。
工房にやってきたマルタとトビアスに、エリンは書き上げた生産表を見せた。
「三十一日目の検収までは、温室の小板に集中します。ほかの相談には、その後にできる日をお返事しましょう。この表で、無理なところはありませんか」
「親方、資金は持つんですか?」
トビアスが、出納帳の薄さを気にするように尋ねてきた。
「次の検収までは持ちます。やり直しの余力は小さいけれど、それを怖がって検査を甘くしたくありません。おかしいと思ったら、止めて一緒に見てください」
エリンの断言に、トビアスは真剣な顔で頷いた。
「わかりました。端の切り落としも、限界まで無駄が出ないようにやります」
「窯の温度は任せてください、親方」
マルタも力強く請け負ってくれた。
それからの日々は、静かで確実な戦いだった。
エリンたちは無理のないペースで、ひたすらに透明な小板を吹き、割り開き、冷ましては厳しい基準で検査をした。寸法と冷却記録を照合し、検査を通った板が、一枚、また一枚と壁際に積み上げられていく。
二十五日目の午後。
作業場に、領主ルシアン・フローレンが姿を見せた。
「順調そうだな、ヴァイス職人」
彼は壁際に積まれた完成品を一瞥し、それからエリンの手元を見た。
「はい。現在、十四枚が検査を通りました。残りも、冷却を確かめながら揃えます」
エリンは手を止めず、磨き用の布を動かしながら答えた。
ルシアンは少し躊躇うように視線を伏せ、それから口を開いた。
「……あなたが自費で不良品の作り直しをしていることは聞いている。手持ちの資金が厳しいのではないか」
エリンは磨く手を止めた。何を見てそう考えたのか、尋ねたくなった。だが、十三枚を作り直すという報告だけでも、余裕のなさは伝わるのだろう。
「もし苦しいなら、中間の三十二枚を待たず、出来た十四枚の分だけ部分検収して、代金を前倒しで支払うこともできるが」
出来た品を先に確かめて払う、という相談だった。エリンは受けることも考え、農園側の据付予定を思い出した。
だが、エリンは首を横に振った。
「お気遣いに感謝します、フローレン卿。ただ、枠の調整が済む日に揃えて、残りの板と一緒に据付まで確認したいのです。材料は確保できていますから、今回は予定どおりでお願いします」
エリンは十四枚目の板を布で丁寧に拭い上げ、彼を見上げて微笑んだ。
「三十一日目に、私たちの検査を見てください。枠に収まるところまで、確かめていただきたいのです」
ルシアンは微かに目を見開き、やがて、その灰緑色の瞳に深い敬意の色を浮かべて頷いた。
「わかりました。では、農園側も受け取る準備を間に合わせます」
彼はそれだけを言うと、静かに工房を去っていった。
二十五日目の夜、検査を終えた十四枚に札を掛けた。残る札は十八枚。給料の袋を机の奥へ戻し、エリンは次に冷えてくる板の場所を空けた。
いよいよ、領主と園丁長による、ごまかしのきかない中間検収が目前に迫っていた。




